私は大学/大学院において身に着けるべき最も重要な事柄の一つは多様性に対する理解だと考えています。 そのため、 私は留学を積極的に勧めていますし、またなるべく留学生を受け入れるようにしています1 。そのため、修士学生、場合によっては卒論生でも研究に関する説明や議論を英語で行うということは普通にあり得ることです(日本人しかいないところでも英語なんていうことではありません。もちろん)2。
良いか悪いかは別として、日本の教育においては、現実的に高校までは均質性を前提としたものとなっています。しかしながら、これからますますグローバル化してゆく世の中、同じようなバックグラウンドを持った日本人同士だけと付き合って生きていくという可能性はどんどん低くなっていくはずです。また、そんな中で日本語onlyというのも、自分の可能性とチャンスを狭めるだけだとも思います。ですので、少なくとも自分の周りの人間は自分と同じような経歴で、同じような考え方をしているのが当然、そして自分は日本語以外口にしないと考えるのならば 3 、当研究室はあまり良い選択肢ではないかしれません4。
とは言いましたのもの、自分のことを思い返しても結局は慣れです。スピーキング/ヒアリングのテストをやらせれているわけではないのですから、こっちがわからないのはお前の英語が悪い、くらいの気持ちでやってください。
追記1: 先日読んだ藤田田氏の書籍に「日本語しか話せないということは、その人間の考え方は儒教か仏教精神を基盤としてしか展開できないということと同じである。たまたま儒教や仏教に全く素養の無い相手にぶつかると、意思の疎通を欠き、しばしば対応の方法がわからなくなって立ち往生してしまう」とありました。テストのため、研究のため、将来の仕事のため、という現実的な理由以外に、こういったことも少し頭においてもらえればなと思います。
追記2:以上は個人にとってという視点で書いています。が、逆に組織の面からどうだということであれば、多様性の科学 画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織あたり5が参考になると思います。