科学にできること,できないこと

社会の中の科学

日本では,価値判断から独立に存在するべき科学と,(善悪などの)価値判断を混同した議論を多く見ることができます.
BSE問題,アスベスト,放射線,非電離電磁場(いわゆる電磁波).....

これらを曝露されたとき(食べたとき),どのような,どの程度のリスクがありうるのか? 何が分かっているのか?
何が分かっていないのか? (無知の知)

それらを,実験,観測結果やそれらを元に作られた理論を元に示すことが科学にできることです.

市民の皆さんの中に,「善悪」の価値判断まで科学に求める方々が多くいます.でも,科学には「善悪」の判断はできません.なぜなら,善悪の判断は個々人の「価値判断」に基づいてなされるからです.

例えば,Aさんがある歌手を好きになったとします.でも,Bさんは,その歌手が好きになれないかもしれません.AさんがBさんにいくら説得しても,Bさんはその歌手を好きになれないかもしれません.説得は永遠に功を奏さないかもしれません.押し問答みたいなものですね.

科学の世界に価値判断を混入させてしまうと,同じ混乱が起こってしまいます.科学の世界では,実験,観察事実(evidence=エビデンス)を元に,誰もが納得できる普遍的な真実を追究します.そして,その真実が(個々人の価値判断によらない)普遍性を持つからこそ,裁判などの事実認定にも(合理的根拠として)使えるのです.科学に「好き,きらい」の問題が含まれていては,科学は合理的な根拠として使えなくなり,学問ではなくなります.

現実社会では,個々人は多様な価値基準を持っています.そのため,社会的政策を行うときの合意形成のため「政治」が必要となります.科学は,上に述べた意味で,政治から独立でなければいけません.そして,本来「公平性」を持っているべき科学(専門家の行動や言動)が「不公正」に見える場面があれば,そこに価値判断が混入していないか,疑ってみてください.

価値判断をするのは「市民」であって,特定の専門家が行うものではありません(ジャーナリストでもありません).そして,市民が価値判断を下すための前提として,正しい科学(エビデンス)が必要になります.市民も科学者も,そしてジャーナリストも,今一度,この原則を確認する必要があるように思います.

参考文献

  1. 「患者は何でも知っている:EBM時代の医師と患者」、J.A.ミュア・グレイ(著) 斉尾 武郎(翻訳)、(EBMライブラリー)中山書店(2004)
  2. 「科学の哲学」、野家 啓一(著)、放送大学教育振興会 (2004)
  3. (a)「科学技術社会論の技法」藤垣 裕子(編)、東京大学出版会(2005)(b)東北大学大学院理学研究科大学院講義「科学基礎論」「科学者の業績とは何かー科学計量学と科学論の立場からー」
  4. 「自然法則の普遍性と文化の多様性」、本堂 毅,吉澤雅幸,須藤彰三、 日本物理学会2007年春の分科会(鹿児島大学)
  5. 「論文捏造」取材の現場から、村松 秀、日本物理学会誌2007年7月号p.531-p.535 (2007)
  6. 「環境科学と基礎科学 物理学に出来ること,出来ないこと」、日本物理学会2007年度,年会 領域13,領域1,領域2,領域10,領域12合同シンポジウム「環境科学リテラシー確立の今日的意義」講演予稿
  7. 電子情報通信学会長への質問書、本堂 毅 他.下記,物理学会誌記事中の引用文献21.
  8. 「マイクロ波環境と受動被曝:基礎物理の役割」(PDF版,htm版)、本堂 毅,坂田泰啓,小林泰三、 日本物理学会誌、 2008年7月号 Vol.63, No.7, p.537-541

市民と研究者の間に生ずる「すれ違い」の体験を元に書いた文章です.養老さんがよく書いてますが,「常識」の共有は社会にとって欠かせないものです.常識が通じなかったら対話は成り立たないからです.
科学と価値判断の独立性は,欧米の研究者・市民にとっては当たり前のことでしょう.しかし,日本では研究者でさえも,この常識をちゃんと理解していない人が少なくありません.
実際,インターネットで「専門家」のホームページを検索すれば,反面教師をすぐに見つけることができます.科学の世界にご本人の個人的価値判断を「混入」させています.
世界に通用する真に独創的な研究者,国民に資する研究者の必要性が指摘される今日,専門家を育てる高等教育のあり方,システムについても,基本から考え直す時期に来ているのではないでしょうか?

このような問題に関して掲載されました。
御用学者がつくられる理由.[岩波書店 科学,81(9),(2011),887-895] 尾内隆之,本堂 毅
PDF(岩波書店許諾)