東北大学構内の遺跡


 東北大学周辺の遺跡

東北大学構内の遺跡 
団地名 所在地住所 遺跡名 県遺跡番号 時代 備考
川内1 仙台市青葉区川内27-1・41他 仙台城跡 01033 近世 二の丸地区・二の丸北方武家屋敷地区・御裏林地区
仙台市青葉区川内12-2 川内古碑群 01386 鎌倉 弘安10年(1287)・正安4年(1302)他
仙台市青葉区川内41 川内B遺跡 01565 縄文・近世  
青葉山2 仙台市青葉区荒巻字青葉6-3 青葉山B遺跡 01373 縄文・弥生 古代  
仙台市青葉区荒巻字青葉6-3 青葉山E遺跡 01143 縄文・弥生 古代  
青葉山3 仙台市青葉区荒巻字青葉468-1 青葉山C遺跡 01442 旧石器  
富沢 仙台市太白区三神峯一丁目101 芦ノ口遺跡 01315 縄文・弥生 古墳・古代  
川渡 大崎市鳴子温泉大口字蓬田 上川原遺跡 36006 縄文  
大崎市鳴子温泉大口字町 丸森遺跡 36038 縄文  
大崎市鳴子温泉大口字町 東北大農場2・3号畑遺跡 36098 縄文  
大崎市鳴子温泉大口字町西 町西遺跡 36106 弥生  
小乗浜 牡鹿郡女川町小乗浜 小乗浜B遺跡 73021 縄文 宿舎裏の山林部分
 本表の「県遺跡番号」は、県の登録番号に拠る(「宮城の埋蔵文化財」参照)。

これらの登録されている遺跡範囲内でのいかなる掘削にも、施設部および埋蔵文化財調査室との協議が必ず必要です。 法令に定められた手順に従って手続きを進めることになります。(調査に至る手順

(1) 川内地区二の丸跡


この背景地図には、「仙台市都市計画図1/25000」を利用した。
 川内地区は、沢とその脇を東西に走る道路によって、川内南地区と北地区に分かれています。川内南地区は、仙台城二の丸が置かれた場所であり、北地区は家臣の屋敷が存在した区域に相当します。それぞれ仙台城跡二の丸と仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区として、継続的な発掘調査が進められてきました。これまでに、仙台城跡二の丸地区では第17次、仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区では第13次の発掘調査がなされています。これらの調査概要と刊行された報告書に関しては、こちら(これまでの調査刊行物の案内)をご覧ください。
 仙台城は、慶長5年(1600年)から、仙台藩初代藩主伊達政宗によって、現在の本丸部分の築城が開始されました。現在の二の丸部分には、後に宇和島藩主となった政宗の四男宗泰の屋敷があったと言われています。元和6年(1620年)には、政宗の長女五郎八姫の居住する西屋敷が造営されています。寛永15年(1638年)には、二代藩主忠宗によって二の丸の造営が開始されるとともに、本丸で行われていた仙台藩の諸行事は二の丸に移されました。その後、四代藩主綱村の代の元禄年間(1688〜1703年)には、大規模な改築が行われたことが知られています。当初南側に片寄っていた二の丸敷地は、やがて政宗時代の西屋敷の全てをとり込み、北側に拡張されました。
 戌辰戦争の動乱の後、仙台藩は大幅にその所領を削られ、藩主は知藩事となり、それと共にニの丸には藩の勤政庁が置かれました。明治4年(1871年)の廃藩置県以後は、明治政府の管轄下におかれ、東北鎮台(仙台鎮台)の本営として使用されました。しかし、明治15年(1882年)失火のためにその建物のほぼ9割が失われました。その後、この地に第二師団司令部が置かれ、第二次世界大戦後は、米軍の駐留地となりました。昭和32年(1957年)に至り、米軍より返還され、東北大学の管理下に入り教委部・理学部附属植物園として使われ、昭和47年(1972年)以降は文学部・教育学部・法学部・経済学部・図書館が置かれてきました。
 また、この仙台城二の丸・北方武家屋敷地区以外の遺跡としては、川内B遺跡と川内古碑群があります。川内B遺跡は、仙台市高速鉄道東西線の建設に伴い、仙台市教育委員会により発掘調査がなされています(『川内B遺跡』仙台市文化財調査報告書第385集 2011年)。その結果、17〜19世紀の井戸や柱列跡等が検出され、陶磁器等の大量の遺物が出土しています。川内古碑群は、鎌倉時代の弘安10年(1287年)と正安4年(1302年)の記載がある2基の板碑があります。前者は、「陸奥州主」の菩提を弔うために造立されたものです。釈文・実測図等の詳細は、『仙台市史 特別編5 板碑』 1993年に掲載されています。

(2) 青葉山地区

この背景地図には、「仙台市都市計画図1/25000」を利用した。
 
この背景地図には、「仙台市都市計画図1/25000」を利用した。
 青葉山地区は、江戸時代には仙台城の後背地として、明治時代以降も帝国陸軍第二師団の演習地として、一般の立ち入りが制限されていました。戦後も、東北大学の理学系学部の青葉山移転が始まる昭和39年(1964年)以前には、わずかに開拓農家が点在する程度で、遺跡付近の自然景観は比較的良好に保たれていたと考えられます。
 昭和46年(1971年)頃から始まった東北大学考古学研究室による踏査(青葉山A・B・C・D遺跡)や、東北大学埋蔵文化財調査センターによる調査(青葉山E遺跡)により、青葉山の遺跡群は、旧石器時代・縄文時代を中心とした遺跡群であることが判明しました。しかし、旧石器ねつ造事件が発覚し、青葉山B遺跡年報2、青葉山E遺跡第5次調査年報14)の旧石器に関しては、学術資料としては適切ではないことが判明しました年報14宮城県教育委員会による報告。ただし、2006年度に調査した青葉山C遺跡においては、後期旧石器が出土年報24しており、旧石器時代の遺跡が存在しているのは確実です。
 青葉山地区における調査概要と刊行された報告書に関しては、こちら(これまでの調査刊行物の案内)をご覧ください。

(3) 富沢地区
 
この背景地図には、「仙台市都市計画図1/25000」を利用した。
  富沢地区は、青葉山丘陵南麓の名取川が形成した河岸段丘上に位置しており、その全域が芦ノ口遺跡(縄文〜古代)として登録されています。当地区には、戦前陸軍幼年学校があり、この時に削平を受けているようです。もともとは、北東の金洗沢側へ緩やかに傾斜する地形だったものと推定されます。現在、東北大学電子光理学研究センターと宿舎・野球場などが置かれています。この地区の周囲には、数多くの遺跡が点在しており、南に隣接する三神峯公園は、縄文・古墳時代を主体とする三神峯遺跡として知られています。
 富沢地区における調査概要と刊行された報告書に関しては、こちら(これまでの調査刊行物の案内)をご覧ください。

 (4) 川渡地区
 
この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。
 川渡地区には4箇所の遺跡が存在します。現在は東北大学大学院農学研究科附属複合生態フィールド教育研究センター 複合陸域生産システム部(川渡フィールドセンター)などが置かれています。最も北に位置する上川原遺跡は、縄文時代晩期および弥生時代の遺跡として登録されています。1993年度に試掘調査を行いましたが、遺構・遺物は確認されていません年報11。2007年度には、南側の隣接地で立会調査が実施されましたが、同様に遺構・遺物は検出されませんでした年報2007。その南東に位置する丸森遺跡では、2008年度に北側隣接地での立会調査が実施されましたが、遺構・遺物は確認されていません年報2008。南端の町西遺跡では、1989年度に発掘調査がなされています年報7。時期不明のピットなどのほか、弥生時代後期の土器が少量出土しました。そのほか、東北大農場2・3号畑遺跡は縄文時代として登録されていますが、正式な発掘調査歴は無いため、その詳細は不明です。

 (5) 女川地区
 
この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。
 女川地区では、縄文時代晩期の小乗浜B遺跡が登録されています。現況では、東北大学大学院農学研究科附属海洋生物資源教育研究センター裏手の山林部分にあたります。正式な発掘調査歴などは無いため、詳細は不明です。


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