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先人たちの発想法 Past Innovation牧田らく 日本初の女子大学生、画家金山平三の妻、数学研究者としての生涯


日本初の女子大学生となるまで

牧田らくは、明治21(1888)年10月に京都市に呉服商の娘として生まれました。幼い頃から算数が好きだったらくは明治34(1901)年に京都府高等女学校に入学し、そこで数学教師の野々村八十と出会います。成績優秀で特に数学を得意とするらくに、野々村は自らの母校であり、当時の女子の最高学府であった女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)への進学を勧めます。
明治40(1907)年、らくは女子高等師範学校理科(らくの在学中に東京女子高等師範学校と改称。以下、東京女高師)へ入学します。在学中、東京高等師範学校(現:筑波大学)の教授だった林鶴一が数学の授業を嘱託されており、らくは後の東北帝国大学(以下、東北帝大)入学後の指導教官となる林との出会いを果たしています。明治44(1911)年に卒業した後は同校研究科に進学して数学の研鑽をさらに積んでいます。その後、大正 2 (1913)年3月に修了して同校の数学の教師となりました。
そして、大正 2 (1913)年夏、東北帝大が日本の大学で初めて女性へ門戸を開放しました。林や東京女高師など周囲の勧めもあり、数学をさらに深める希望があったらくは理科大学数学科を受験して合格します。そして、化学科を受験した同じく東京女高師の黒田チカ、日本女子大学校の丹下ウメと共に、日本初の女子大学生となりました。

明治44(1911)年3月、東京女高師卒業時の牧田らく(2列目右2二人目)。
教員として黒田チカも写る(5列目右5人目)。
「東京女子高等学校卒業写真 明治44(1911)年3月」(お茶の水女子大学蔵)

東北帝国大学での学生生活

らくは入学後、東北帝大の教員となっていた林鶴一のもとで数学を研究します。その学生生活について「夜は数学の本を抱いて寝た。昼は歩きながら問題を考えて人に会っても気付かなかった」と後年に回想しているように、学問に没頭する日々を過ごしました。そして、「大学はほんとに楽しかった」と振り返っています*1
初めての女子学生入学に際して、一部の男子学生が反対活動を行ったり、「女だという気持を男の学生に与えないように」*1と当時の北條時敬総長が入学時にらくに注意したりするなどの波瀾が当初はありました。しかしながら、大学卒業時に、らくは「男女とも折合は至極よろしく」、「同級の方々にても寧ろ兄弟よりも親しく極めて円満に勉強」*2したと述べており、実際は男子学生に親しい級友として受け入れられていたようです。 らくは大学在学中に、論文「The squares in a regular polygon」(『東北數學雑誌』第8巻、1915年)、「The convex quadrilateral in which an infinite number of squares may be inscribed」(『東北數學雑誌』第9巻、1916年)を発表し、研究成果を着実に挙げています。そして、大正 5 (1916)年 7 月に大学を卒業し、黒田チカと共に日本初の女性理学士となりました。らくは卒業時の新聞取材に対し、「私共は大学の門戸を開いて下さつた方へ対する責任と後進者の為めに最善の努力をして貢献しなければならぬといふ念で心は一杯です」、「学校と家庭と掛持で勉強するつもりです」*2と言い、教師、家庭、そして数学研究を両立していく決意を表明しています。

大正5年(1916)5月、東北帝国大学卒業時の牧田らく(2列目左3人目)。指導教官の林鶴一(前列中央)。
「理科大学 数学科第3回卒業記念 大正5年(1916)5月27日」(東北大学史料館蔵)

画家金山平三との結婚

大学卒業後、東京女高師の教壇に復帰しますが、大正 8 (1919)年に新鋭の画家金山平三と結婚し、その翌年に職を辞しています。このことは日本初の女性理学士が結婚を機にキャリアを捨て主婦となった出来事として当時のマスコミから注目を浴びました。らくはこのことについて、「私は一つのことしかできない人間です。学校と家庭、その両方は無理です。(中略)ただ、初めて入れていただき、一生懸命に教えていただいた先生に申訳ないと思いました。(中略)だから、できる限り、ずっと勉強を続けておりました。数学はうちでもやれます。」*1と言っています。つまり、らくは教員、主婦、数学研究者の両立は無理だと思いましたが、教職だけを捨て数学研究は辞めずに主婦業と両立しようとしたのです。日本初の女子大学生、日本初の女性理学士としての矜持を結婚により捨てたわけではなかったのです。

「Linkage ニ關スル著作ノ目録」

らくは専門書を取り寄せるなどして、家で研究を続けることに挑みました。しかし、主婦として夫の画業を支えながら研究を深めるのは容易ではなく、数学の文献目録を作ることを目標とします。そして、ついに昭和 8 (1933)年、「Linkageニ關スル著作ノ目録」を『東北數學雑誌』第37巻(林鶴一還暦記念号)に発表しました。しかしながら、目録の冒頭に「固ヨリ不十分ニシテ之レニ洩レタルモノ多カルベシ」と注書きしており、らくにとっては納得のいくものではなかったようです。 その後、しばらくした昭和13(1938)年、ウィーンの数学者Anton E. Mayerがその目録を論文に引用したという知らせが、らくの元に届きます。らくはこの時の気持ちを写生旅行に出ていた夫へ手紙で「私はこの様な大きな喜びを今迄感じました事がございません」*3と伝えています。さらに、「此後 更に拍車をかけ 希望を持つて勉強に取りかかる決心を致しました」*3と、研究継続への確固たる気持ちを表しています。 また、林鶴一は昭和10(1935)年に亡くなっていましたが、らくは東北帝大や東京女高師の恩師たちにも文献目録が引用されたことを報告しています。大学の研究室や学校の教壇から離れたことを、「一生懸命に教えていただいた先生に申訳ない」*1と思っていたらくでしたが、その気持ちが晴れる思いをしたのではないでしょうか。

老年時代の金山平三・らく夫妻(兵庫県立美術館蔵)

晩年

「Linkageニ關スル著作ノ目録」以降のらくの研究業績は、現在のところは知られていません。しかしながら、残された彼女の手帳や日記を見ると、「外出(東大数学談話会)」というメモ書きなど、数学に関する記述が後年まで散見されます。つまり、その後も数学への情熱を冷ますことはなかったのです。
昭和39(1964)年、夫の平三が死去します。その後、らくは夫の業績を後世に遺すことに奔走し、夫の作品の多くを兵庫県に寄贈しています。それは兵庫県立近代美術館設立の一つの契機となりました。そして、昭和52(1977)年 1 月、夫の郷里である神戸市にて88才で亡くなりました。
家庭と両立しながら研究するという他の研究者とは異なる道を選び、両立に苦心しながらも数学への情熱を抱き続けたらくの生涯は、結婚などのライフイベント、その他の様々な事情と両立しながら研究を諦めずに続けようとしている現代の研究者たちも感慨を覚えるものではないでしょうか。


*1「採訪おんなの近代<21>」『朝日新聞』昭和46(1971)年5月30日
*2「日本で初めての女理学士の喜び」『東京日日新聞』 大正5(1916)年 7月18日
*3「昭和13(1938)年 2 月27日付金山らくより金山平三宛書簡」(兵庫県立美術館蔵)

主な参考文献:
志賀祐紀「金山らくの数学に対する思い-兵庫県立美術館所蔵資料から-」、『東北大学史料館紀要』第9号、2014年、21-18頁。
飛松實『金山平三』日動出版部、1975年。
永田英明「企画展「「女子学生」の誕生―100年前の挑戦―」、『東北大学史料館紀要』第9号、2014年、103-126頁。

●関連リンク
東北大学116周年ホームカミングデー ~女子大生誕生110周年・文系女子大生誕生100周年記念式典・記念プログラム
「日本初の女子大生3人-ウメ・チカ・らくのよこがお-」(アーカイブ動画)
https://www.youtube.com/watch?v=wuYYvzBxxOQ&t=3952s

東北大学女子大生誕生110周年・文系女子大生誕生100周年 記念事業特設ウェブサイト
https://www.tohoku.ac.jp/tohokuuni_women/110th/

 

PROFILE

奈良女子大学アジア・ジェンダー文化学研究センター
協力研究員
志賀 祐紀

2018年、奈良女子大学大学院人間文化研究科博士後期課程比較文化学専攻修了。博士(文学)。お茶の水女子大学歴史資料館担当などを経て、現職。2013年、お茶の水女子大学で「日本初の女子大学生誕生100年 黒田チカと牧田らく」を企画。2014年、2015年、東北大学史料館で黒田チカ資料整理に関わる。

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