In Focus特集

日本初の女子大生誕生を実現したものは――。
開かれた大学、その変わらぬ理念

かつての日本では、大学は男性のみに開かれた学びと研究の場であり、女性たちにとっては「女性である」というだけで叶うことのない場所でした。しかし今から110年前の1913年、その堅く冷たく閉ざされた扉を開き、3人の女子大生が誕生します。東北大学が創立当初から掲げた理念と女子大生誕生の軌跡、そして彼女たちの活躍について、学術資源研究センター・史料館の加藤 諭准教授にお話を伺いました。

創立6年目にして3人の女子大生が誕生

日本初の女子大生誕生から今年で110年。東北大学の創立が1907年ですから、創立から6年後には女性にその門戸を開いていることになります。初代総長である澤柳政太郎は、後に大正自由主義教育運動の中心となる人物。澤柳は総長就任当初から一定程度女性への門戸開放を視野に入れていたことが当時の史料からうかがうことが出来ます。彼からその精神と理念を正しく受け継いだ第2代総長・北條時敬が、女子大生誕生の立役者となります。日本初の女子大生となったのは、黒田チカ、丹下ウメ、牧田らくの3人。中でも黒田チカは、有機化学の研究者として大きな成果を挙げ、1929年には「紅花の色素カーサミンの研究」により日本で2人目の女性理学博士となった 人物。ご子孫にあたる黒田光太郎氏のご厚意により当大学に寄贈された黒田チカの研究資料等は、この度その調査・整理を終え、新たに公開される運びとなりました。

紅花の色素カーサミンの研究資料

圧力に屈せず、守るべき理念を貫き通す

1913年の8月初頭に彼女ら3人は入学試験を受けています。その最中である8月9日に、大学行政のトップである文部省の専門学部局長から北條宛てに照会文が届くんですね。内容は、「元来、女子を帝国大学に入学させることは前例のないことなので、これは非常に重大な事件だ。よくよく考えなければならないことだから、東北大学が何を考えているのか説明を求める」というもの。明らかに圧力をかけてきた。しかし大学ではこの4日後の13日には彼女らに合格通知を出すことを決めており、同日付で文部省に合格者名簿を送っています。さらには8月16日の新聞と8月21日の官報で入試合格発表を出し、女子大生誕生の事実を周知のものとします。照会文への対応は25日。いわば事後承諾です。例え相手が国でも理不尽には従わない、性別や国籍、年齢などによる教育差別があってはならない、という「門戸開放」の理念を貫き通したわけです。この「門戸開放」の理念は現在、多様性(Diversity)、公正(Equity)、包摂性(Inclusion)を理念とする東北大学DEI推進宣言へと発展し、さらに100年の後も受け継がれていくことでしょう。

文部省より2代目総長・北條時敬に送られた文書

「元来女子を帝国大学に入学せしめることは前例これ無き事にてすこぶる重大なる事件」とあり、国としては女子大生の誕生を良しとしない、大学として慎重な態度を望む、という圧力が透けて見えるものでした。これは、東北大学が掲げる「門戸開放」の理念を象徴する資料としても一級のものとして大切にしています。

東京女子高等師範学校から東北帝国大学への問い合わせ状

1913年5月6日、黒田チカや牧田らくの母校である東京女子高等師範学校より、「入学ニ関スル件」と題された文書が澤柳宛てに届きます。「東北大学では女子を入学させる計画があるらしいが、入学を希望する女子がいる。本当にエントリーしてもいいのか」といった内容ですね。また、「もし入学が許可された場合、卒業後は再び東京女子高等師範学校で採用したいと思っている」と、彼女たちを手厚く扱っていることが分かります。

1913年度入学試験の日程

1913年の入学試験は、8月8日に体格検査、9日に一次試験、10日から12日まで二次試験(選抜試験)が行われました。二次試験では、筆記試験に加えて各学科の担当教授たちによる口頭試験もあり、男子受験生たちと何ら変わらぬ条件で3人の女性たちも試験に取り組みました。一次試験が執り行われている真っ最中の9日、文部省からの照会文が届きました。


合格者名簿の官報掲載案

文部省からの照会に対応するよりも以前の8月21日、東北大学は官報にて合格者名簿を発表します。そこには当然、3人の女性合格者の名も掲載されるので、文部省の圧力には屈しない、という大学の意思表示でもあるわけです。

1913年度入試問題の一部

二次試験で行われた筆記試験の問題です。創立から間もない新設の帝国大学として、他の大学の後塵を拝するのではなく、時代を創る先駆者たれ、という気概で人材の育成を図っていたので、入試問題もかなり高度なものを用意していました。

スクラップ帖

黒田チカ本人の手によるものか、ご家族の誰かの手によるものかは分かりませんが、とても丁寧に、細かく黒田チカについての記事を切り取り、保存しています。彼女の軌跡を追う上でも貴重な資料です。

学位授与の公文書

1929年、黒田チカは「紅花の色素カーサミンの構造」についての学位論文で東北帝国大学から理学博士を授与されました。女性による博士号取得は日本で2番目、そして化学分野では実に日本初となる快挙でした。


「たまねぎおばさん」台本

タマネギに含まれるケルセチンに血圧降下作用があることを発見した黒田チカの人生を主題としたドラマ「たまねぎおばさん」。主演を若き日の市原悦子さんが務め、1964年のNHKテレビこども劇場の枠にて放映されました。


ケルチン錠剤

タマネギ外皮に含まれるケルセチンという物質が黄色の染料となることを突き止めた黒田チカは、ソバに含まれるルチン(ケルセチンの配糖体)が高血圧の治療に効くことと考えあわせ、タマネギ外皮を血圧降下剤に活用できるのでは、と研究を進めました。その結果、1953年に日米薬品株式会社から高血圧治療薬「ケルチン C」として発売されました。ケルチンは今でもサントリーの「特茶」などでその効果を発揮しています。

研究時に着用していた白衣

黒田チカが研究や実験時に着用していた白衣。彼女の研究のベースであった天然色素研究によるさまざまな色染みが残されており、研究に没頭する黒田チカの様子が目に見えるようです。

PROFILE

加藤 諭 KATO Satoru

東北大学学術資源研究公開センター史料館准教授。博士(文学)。東京大学文書館特任助教を経て2017年より現職。国の公文書管理法が定める大学アーカイブズにおいて、複数館での教務経験を有する研究者として、大学・企業・社会のアーカイブズと歴史学を組み合わせた研究を進めている。主な著書に『老い-人文学・ケアの現場・老年学』(編著、ポラーノ出版)、『戦前期日本における百貨店』(清文堂)、『大学アーカイブズの成立と展開―公文書管理と国立大学』(吉川弘文館)、『デジタル時代のアーカイブ系譜学』(編著、みすず書房)など。

「黒田チカ博士の精神、現代にも ―青葉理学振興会 黒田チカ賞-」

黒田チカ賞は、女性として化学分野でわが国最初の博士号を取得した黒田チカ博士を記念し1999年に創設された賞で、理学分野における女性研究者の育成を目的としています。東北大学の理学研究科および生命科学研究科の博士後期課程に在籍する女子学生が賞の対象で、青葉理学振興会が毎年、優れた研究業績をあげた学生数名を選び顕彰しています。
今年(2023年)で25回目を迎え、これまでに70人の女子学生が表彰されました。黒田チカの精神は、現代もなお、東北大学に受け継がれています。

黒田チカ賞について

「令和4年度 青葉理学振興会各賞授与式」
「黒田チカ賞受賞者」

参考リンク
東北大学・特設サイト 日本初・女子大生誕生の地
東北大学女子大生誕生110周年・文系女子大生誕生100周年記念事業特設ウェブサイト

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