東北大学 東北大学新型コロナウィルス対応特別研究プロジェクト,The Front Line of COVID-19

PEOPLE

インタビュー

COVID-19の特異性を理解してこそ


ウイルス感染症学を専門とする押谷仁教授は、COVID-19パンデミックが発生して以来、その対策の中心で奮闘してきました。その一方で、流行が繰り返されることにいら立つ人たちから、メディアやSNSを通した批判にもさらされてきました。それでも使命を果たし続ける押谷さんに、その胸の内と実情を伺いました。  

(2022年3月8日にオンラインで収録)


瀬名: 押谷先生とはこれまで、いっしょに3冊の本を出してきました。最初は、2009年の新型インフルエンザパンデミックが発生した年に対談をしてそれをまとめた共著『パンデミックとたたかう』(岩波新書、2009)。2冊目はぼくがウイルス学の研究者である父とまとめた『インフルエンザ21世紀』(鈴木康夫監修、文春新書、2009)に押谷先生へのインタビューを収録しました。そして2020年には、NHK BS1スペシャルの座談会に基づいた『ウイルスVS人類』(瀬名秀明・押谷仁・五箇公一・岡部信彦・河岡義裕・大曲貴夫著、文春新書、2020)です。
 『パンデミックとたたかう』を出版したのは2009年でした。今回のCOVID-19で、2020年の1月から東京アラートが出た同年4月までの経緯を見ると、社会が閉塞感に捕らえられました。そんなときこそと思い、この本と『インフルエンザ21世紀』の復刊を期待してそれぞれの版元に掛け合ったのですが、結果的に紙ではなく電子出版になりました。その頃、近所の人たちと会話する中で驚いたのは、2009年のパンデミックを誰も覚えていないことでした。欧米では20~50万人、日本でも200人近い人が亡くなったのに。まず、2009年の新型インフルエンザの流行時と今回の大きな違いについて、押谷先生の印象をお聞かせください。

押谷 仁 教授

押谷: 『パンデミックとたたかう』の基になった座談会の最初で、この本は10年、20年たっても読まれる本にしたいとおしゃっていた。それがほんとうになり、すごいなと思っています。

新型インフルエンザの教訓

押谷: 世界中でパンデミック対策が進んだのは、1997年香港での高病原性鳥インフルエンザH5N1の流行がきっかけでした。日本でも、NHKスペシャルで、恐ろしい光景が描かれたりしました。高病原性鳥インフルエンザは、致死率が50%に達したこともありました。それ以後もいくつかの大きな流行がありました。2002年に中国広東省で発生した重症急性呼吸器症候群(SARS)や、2012年に中東で発生した中東呼吸器症候群(MERS)などです。
 その中で、2009年の新型インフルエンザパンデミックは、それまで想定していたものより致死率がかなり低いものでした。その理由は、病原性が低かったということもありますが、免疫をもつ人がたくさんいたことが大きかったと思います。特に、選択的に被害を受けやすい高齢者の多くが免疫をもっていた。それが、2009年の新型インフルエンザパンデミックの被害が少なかった最大の理由です。
 その結果、それまでパンデミックに対する危機感を高めなければいけないと訴えていた東京大学医科学研究所の河岡義裕先生やぼくたちみたいな専門家に対する反発がすごく大きくなり、オオカミ少年呼ばわりされました。インフルエンザのパンデミックなんてたいしたことないじゃないかという声が大きくなったのです。いわゆる「専門家」と言われる人たちのなかにも、大きな声でそういった批判をする人たちがいました。世の中がそういう流れに乗ってしまったということもあり、スペインインフルエンザ(スペイン風邪)が大変だったというけれど、あれは細菌性肺炎が主であって、21世紀にはあんなこと絶対に起きないと強く言う「専門家」がたくさん出現しました。
 そういうこともあって、パンデミックに対する危機感が一気にしぼんでいった。特に医療関係者に影響力のある人たちがそういう発言をしていたことで、医療関係者の危機感が一気にしぼんでいきました。一般の人たちの記憶に残らなかったのはそのせいでしょう。それで、パンデミック対策なんて必要ないという流れに一気に向かっていったのです。これは日本だけのことではなく、ほかの国でもそうでした。

瀬名秀明さん

瀬名: 昔からいわれる「抗原原罪説」という考え方で、人間は生まれて最初に感染を受けたA型インフルエンザウイルスの抗原性をいちばん強く記憶している、というものですね。あのとき高齢者にはもともと免疫があったので重症者数が抑えられたのではないかという。ただぼくの記憶だと、そう言われるようになったのはある程度たってからで、2009年の時点ではあまり言われていなかった気がするのですが。

押谷: 2009年のパンデミックが始まって1カ月か2カ月たった頃のことですかね。2009年の新型インフルエンザウイルスH1N1は、遺伝子再集合(リアソートメント)を起こしたウイルスだと言われています。スペインインフルエンザウイルスH1N1は、流行の後、ヒトからブタへの感染が起きて、ブタの中で100年近く維持されてきた。そのウイルスが、再び遺伝子再集合を起こしてヒトに感染しやすくなったのが、2009年の新型インフルエンザウイルスだと考えられているのです。
 感染症のなかには一度かかると抗体が生成されて一生にわたる免疫ができることで、二度とかからないものもあります。麻疹は、その一例ですね。ところがインフルエンザウイルスは、ヒトの体内で抗原から逃れるかたちで(抗原選択圧がはたらいて)どんどん変異していってしまいます。インフルエンザワクチンの組成を何年かに1回変えなければいけないのはそのためです。ブタは、食肉として出荷されるのが生後半年くらいらしくて、世代交代のサイクルがとても速い。そのため、抗体から逃れる変異を起こす必要がない。そのせいで、1918年のスペインインフルエンザウイルスにとても近いウイルスがブタの集団の中で維持されていました。2009年時点でスペインインフルエンザを経験した人は少なかったものの、20歳代くらいまでにスペインインフルエンザウイルスの末裔に感染した人には基礎免疫があったため、高齢者でも新型インフルエンザにかかりにくかったのです。

瀬名: 1977年に発生したソ連インフルエンザもH1N1だったので、それに感染したことのある人も新型インフルエンザの感染を免れたのではないかという説もありますね。

押谷: そうなんです。長くなりますが、スペインインフルエンザを起こしたH1N1は1957年のアジアインフルエンザでいったん消滅し、H2N2に置き替わりました。それが68年の香港インフルエンザでH3N2に置き換わった。A型インフルエンザは、そのようにH1、H2、H3と変わってきました。1977年にH1N1がまた突然出現しました。その原因は、1976年にアメリカで起きた豚インフルエンザ騒動(注1)と関係しているのです。最初の流行は、中国北部からソビエト連邦沿海州で起きたためにソ連インフルエンザと呼ばれています。しかしそれほど強くなかったので、H3N2を駆逐できなかったため、それ以降、このH1N1とH3N2という2つの亜型が共存することになりました。そういう歴史的経緯があり、2009年のパンデミックもH1N1だったために、スペインインフルエンザ、ソ連インフルエンザに暴露した人たち、特に高齢者が感染を免れたのです。そのため、インフルエンザパンデミックの中では例外的に少ない被害で終わりました。
 そもそも2009年の新型インフルエンザをパンデミックと呼べるのかという議論も一部にあります。パンデミックインフルエンザが起こるのは異なる亜型が出現したときだというのがそれまでの教科書の通説だからです。実際、1918年はH1N1で、57年はH3N2、68年はH2N2でした。それが、それまでのウイルスが1977年のソ連インフルエンザによって駆逐されなかったこともあって、2つの亜型が同時に流行する状態が30年くらい続いてきました。2009年のH1N1も、H3N2を駆逐できなかった。2009年のインフルエンザは以前の亜型と同じなのにそれをパンデミックと呼んでよいのかという議論があるものの、一般にはパンデミックと呼ばれ、日本では新型インフルエンザと呼ばれているのです。そこで、「新型インフルエンザ」なんてたいしたことないじゃないかという印象が、専門家から一般人まで広い層で生まれ、パンデミック対策への危機意識が薄れたということです。

特措法の制定

瀬名: その後、2009年のインフルエンザは季節性インフルエンザになり、今でも一定の割合で世界で流行しています。2009年の新型インフルエンザの死亡者数は季節性インフルエンザの死亡者数とさほど変わりませんでした。2012年に特措法(新型インフルエンザ等対策特別措置法)が施行されたのは、2009年のパンデミックや2011年の東日本大震災の教訓を踏まえて、自治体の防疫対策にある程度の裁量権を与えるという主旨だったと理解しています。感染症の専門家もそれで当時は納得していたのではないかと思うのですが、押谷先生はどうお考えでしたか。

押谷: 特措法ができる前後、ぼくは厚労省(厚生労働省)の新型インフルエンザ専門家会議や内閣官房の新型インフルエンザ等対策有識者会議のメンバーでした。しかしぼくが知りうる限り、特措法の内容に関して、感染症の専門家はほぼ関与していないと思います。2020年2月3日に成立した改正案が専門家会議で事前に十分に議論された記憶もありません。

瀬名: えっ、そうなんですか。たとえばWikipediaには、川崎市健康安全研究所所長の岡部信彦先生や押谷先生も加わった2009年新型インフルエンザウイルスパンデミックの総括提言を受けて交付されたとあります。

押谷: これについては瀬名さんも含めて誤解している人が多いと思います。特別な法律が必要だという提言はありました。意見も聞かれたし、意見はさんざん伝えましたが、それが反映されることはほとんどありませんでした。なので多くの問題点を抱えています。特措法を作ったことは評価しますが、その過程は不透明です。
 あれが作られた背景は、2005年に策定された政府の新型インフルエンザ対策行動計画が2009年のパンデミックで改訂されたものの、現行の感染症法では対応できないということがたくさん書いてありました。そこで矛盾していてはまずいということで特措法を作ったと理解しています。「新型インフルエンザ等」と「等」が入っているのに、ほぼ新型インフルエンザのことしか考えていないというのも問題です。特措法での緊急事態宣言の重点措置の要件に「当該報告に係る新型インフルエンザ等にかかった場合の病状の程度が、感染症法第六条第六項第一号に掲げるインフルエンザにかかった場合の病状の程度に比しておおむね同程度以下であると認められる場合を除き」(特措法第15条)とあるのですが、COVID-19の場合はこれはリンゴとオレンジを比べるようなものでナンセンスです。しかも、リンゴ側の規準でオレンジを評価するに等しい。パンデミックインフルエンザならそれでいいかもしれませんが、COVID-19にはまったく当てはまりません。分科会(新型コロナウイルス感染症対策分科会)の一部の構成員はそれを盾に、今の重点措置はおかしいと主張しています。

瀬名: 今回のようにCOVID-19で時短や休業を一律に要請し、従わないと罰則を科す特措法は、そもそも違憲の疑いがある、と指摘する憲法学者の方もおられます。 (注2)特措法で新型インフルエンザ以外には当てはまらないのはどのあたりですか。

押谷: COVID-19は、これまで考えられていたパンデミックインフルエンザよりもはるかに危険な感染症です。感染性がはるかに高く、ほっておけば致死率もはるかに高い。パンデミックインフルエンザの場合、基本的な考え方として、どこかの時点を過ぎたら諦めることになっています。政府行動計画にもそのように書かれており、多くの国の考え方も同じです。

瀬名: 感染経路を追跡できなくなるということですか。

押谷: 追跡だけではなく、国境対策など、ある一定のところに達したらすべてにおいて対策を軽減するしかなくなると考えていました。あるところまでは封じ込めを目指すのですが、それ以後は、ピークをなるべく低くして滑らかにしていく対策に移行します。これを被害軽減(Mitigation)と呼んでいます。これはほとんどの国のパンデミックインフルエンザ準備計画に書かれていることです。しかしピークをなだらかにしても、最終的な被害の程度はほとんど変わらず、結果的に多くの被害が出ます。
 COVID-19流行の最初の頃、2020年3月頃から、政府も自治体も、いつから被害軽減に移行するんだと言っていました。そうすれば全数把握とかいろいろなことが必要でなくなるからです。パンデミックインフルエンザでは、それでしょうがないという考え方なのです。国境をいつ開くんだという話がずっとありました。しかしこの2年間、日本の国境はほぼ閉まったままです。そんなことはしないしできないというのが、パンデミックインフルエンザ対策の考え方なのです。厳しい波が襲う1シーズンを耐えれば、2シーズン目も、第二波はあるけれど、半年か1年後、第三波は小さくなると想定できるからです。ところがCOVID-19では、まったく違うことが起きています。1年に何回も流行も起こるし、さらに大きな被害が起こったりしている。なのに、インフルエンザパンデミックで想定していたことが、頭から抜けずにいるのです。
 実際、アメリカでもイギリスでも、すでにスペインインフルエンザの死亡者数を越えています。それほどの潜在力をもつウイルスが突然出現したのです。インフルエンザと比べて、とんでもなく制御しにくいし、先がぜんぜん見通せないウイルスが出て来てしまったという現実を、多くの人がわかっていない。一部の「専門家」が、スペインインフルエンザは2年と少しで収束したのだから、COVID-19もそうなるというような発言をしていますが、そうはならない可能性が高いです。まったく別のウイルスなのだから、インフルエンザの論理では割り切れないのです。そこが、多くの人に理解されていない。「専門家」も理解していません。

未曾有のパンデミック

瀬名: ジョンズ・ホプキンス大学の情報サイト(注3)を見ると、実際、すでに世界44億7000万人余りが感染し、およそ600万人が死亡したとあります。ではなぜ、新型インフルエンザ以外の想定ができていなかったのでしょうか。歴史的に、世界的なパンデミックはほとんど起きてこなかったからでしょうか。鳥インフルエンザから新型インフルエンザの出現は予想されていました。しかし新型コロナウイルスの出現には、ぼくも意表を突かれました。ヒトに感染するコロナウイルスは、風邪の病原体として蔓延している季節性の4種類と、SARSとMERSという重症肺炎ウイルス2種類をあわせた6種類でしたが、今回、7つ目が加わりました。今回はなぜ、こんなパンデミックになってしまったのでしょうか。現時点から振り返って、COVID-19の特異な点を教えてください。

押谷: そもそも、感染症に関するわれわれの知識は底が浅いといえます。特にウイルス感染症については、1924年にウイルスが発見されてから、まだ100年たっていないわけです。スペインインフルエンザが起こった1918年の時点では、ウイルスという存在はまだ知られていませんでした。われわれにあるのは、たかだか100年の知識なのですが、それですべて理解しているかのように錯覚していたのかもしれません。インフルエンザのパンデミックはそれ以前も数十年に1回の割で起きていただろうし、それ以後も起きてきたので、それは把握できている。しかし数百年に1回のタイムスパンで起きてきたことがあるとしたら、それはわれわれの知識の外にあります。
 もしかしたら季節性のコロナウイルス4種類についても、過去のどこかの時点でパンデミックを起こしていたのかもしれません。現時点のデータでは、そういうことはなかった可能性も考えられますが、それが事実かどうかはわかりようがない。それ以外にもたくさんのウイルスがヒトに感染していますが、100年前以前に何らかの病気を引き起こしていたかどうかもわかっていません。そんな状況なのに、あたかもすべてわかっているかのように、みんなが錯覚していた。そのあたりに問題があるような気がしてなりません。

瀬名: まったく想定外の新型ウイルスだったわけですね。

押谷: そうはいっても、コロナウイルスがこういうことを起こすという蓋然性はけっこうありました。2002年から3年にかけて発生したSARSがあったからです。あの時はぼくもWHOで対策にあたっていました。そのとき、このウイルスが仮にどこかの時点で病原性が下がり、下気道(肺)で増殖するだけでなく、上気道でも増殖するようになったら大変なことになるという議論をしていました。重症化する前に感染を広める危険が生じるからです。その可能性はありました。その前にSARSを止めないと大変なことになる、ヒトに定着するウイルスになるととても厄介なことになるという議論をしていました。その心配が、今回の新型コロナウイルスで起きてしまったわけです。出現時ですでに上気道でもよく増殖する性質をもっていて、病原性はSARSに比べると低いけれど、パンデミックインフルエンザに比べると高いウイルスでした。そういうウイルスが突然出現してしまったということなのだと思います。

瀬名: コロナウイルスはRNAウイルスですが、修復酵素をもっているニドウイルスというグループです。DNAウイルスである天然痘ウイルスは変異が少ないし、ヒトにしか感染しないので変異する要素が少ない。RNAウイルスのインフルエンザウイルスは人獣共通感染症で変異する頻度も高い。新型コロナウイルスはその中間くらいの変異度ではないかと、当初、ウイルス学の河岡義裕先生が説明なさっているのを聞いた記憶があります。変異株が次々と出ているのは、感染者数があまりにも多いせいではないかとも。この認識は今でも正しいのでしょうか。

押谷: 今から考えると間違っていたところはあるけれど、ぼくも当初はそう考えていました。インフルエンザウイルスよりも変異が起きにくいウイルスであるにもかかわらず、インフルエンザウイルスでは通常起き得ないような変異が立て続けに起きてきている。
 季節性インフルエンザウイルスの変異のしかたは、抗原連続変異(抗原ドリフト)と呼ばれるもので、HAの抗原性が少しずつ変わっていくというのがその本質です。ヒトの体内では抗原選択圧が強くはたらいているので、抗原から逃れるかたちで変異して、次の季節につながっていく。抗原不連続変異(抗原シフト)では、抗原性ががらりと変わる変異を起こし、その際に病原性も変わってしまい、そのせいでパンデミックが起こる。COVID-19では、デルタ株もオミクロン株も、どこから出てきたのかわかっていません。少なくとも連続性の変異ではない。武漢株からヨーロッパ株に移行して、アルファ株になり、ベータ株になり、デルタ株になりという進化がつながっていない。少なくともオミクロン株はデルタ株から派生したものではありません。

瀬名: そんな不連続な変異が突然出現し、瞬く間に世界に広がるということが2カ月くらいごとに起こるのはなぜなのか、不思議な気がするのですが。

押谷: たしかに不思議なのですが、その仕組みは不明です。河岡義裕先生とも話し合ったことがあるのですが、1つの可能性としては、HIVとかがんの治療を受けているような免疫不全のある患者の体内でウイルスが長期間にわたって増殖し続けていると、アミノ酸の変異が蓄積するということが起こり得る。そういうケースを想定しないと説明できないことがあるのです。
 アルファ株はSタンパク質に8つのアミノ酸変異があり、オミクロン株は30数個あります。アルファ株はイギリスからまず見つかりましたが、すべて同じ変異をもっていました。ある集団で殖えたものなら、変異にばらつきがあるはずです。全部が同じということはありません。なので、アルファ株は一人の感染者から出現したとしか考えられないのです。オミクロン株も同じで、ただ一人の感染者から出現した可能性が高い。もう1つの説としては、ヒトから動物にうつり、それがヒトに戻った可能性もあり得ます。ただしまだ、どの可能性も証明はされていません。

瀬名: 他の6種類のコロナウイルスでも、そういうことが起こっていても不思議ではないような気もしますが。

押谷: そこがよくわかっていないところで、SARSは8カ月でヒトから駆逐できたので、そういった変異が起こることを阻止できたのかもしれません。季節性コロナに関しては、そういうことがなぜ起きていないのか、よくわかっていません。前述のように、季節性コロナが、過去にパンデミックを起こしたのかどうかもわかっていない。いちばん最近になってヒトに伝播したとされるヒトコロナウイルスHCoV-OC43は、もともとウシのウイルスだったと考えられています。それが19世紀の終わり頃にヒトに感染したと考えられています。ちょうどその頃、1889年に旧ロシアインフルエンザのパンデミックが起きています。この原因がOC43ではないかという説もありますが、受容体が、SARSコロナウイルスはACE2ですが、OC43ではシアル酸なので、ほんとうに多くの人が亡くなるようなパンデミックを起こしたかどうかはわかりません。ヒトコロナウイルスのHCoV-NL63の受容体はACE2ですが、どこかの時点でヒトで大きな流行を起こした可能性はあるものの、確認されていません。

WHOの失策

瀬名: 日本は感染者数、死者数共に少ないほうの国だと思います。しかし、国内的には政治不信、専門家不信を招いている。押谷先生もメンバーだった専門家会議については、『分水嶺』 (注4)で詳しく語られています。専門家会議は2020年7月に終わり、代わって分科会(新型コロナウイルス感染症対策分科会)が設けられました。
 ここからは、この2年間の押谷先生の思いを少し踏み込んでお聞きしたいと思います。
 2019年12月末、中国でCOVID-19の流行が発生し、日本では2020年1月半ばくらいから症例が出始めて、2月に《ダイヤモンド・プリンセス号》が来て大騒ぎになりました。それから専門家会議が立ち上がった。NHKエンタープライズのプロデューサーから突然メールが来て、押谷先生、五箇公一先生(国立環境研究所)とぼくの3人で座談会をしないかと言われて、NHK BS1スペシャル『ウイルスVS人類』の第一回(注5)を収録したのが3月11日でした。その前日に東京入りして、ホテルから父に電話をしました。押谷先生に聞いてほしいことがあるかと父に言ったら、「すでにWHOのインフルエンザパンデミックフェーズ6に相当しているのに、パンデミック宣言がまだ出されていないのはなぜかを聞いてくれ」と言われました。それで翌朝お会いしたとき、すぐそのことをうかがったのです。それについては国際間で調整中で、すぐにもパンデミック宣言が出るはずだとの答をいただきました。そしたらその晩、12日の未明に、WHOのテドロス・アダノム事務局長が「パンデミックと見なせる」との宣言を出しました。そのパンデミック宣言が出るまでの、押谷先生の考えの変化をお聞かせください。

押谷: 考えの変化はさほどありませんでした。12月31日に武漢で感染症が発生したという報道があり、それを受けて1月3日にWHOが発表しました。正式な発表が遅れた理由はいろいろ不思議なことがあるのですが、それはともかく、その時点ではどんなことが起こるか何とも言えませんでした。SARSのときと同じようなことが起きて、SARSと同じように封じ込められるのではないかと、最初は思っていました。ところがWHOが情報を更新する中で、感染者数が60人、70人となり、それが百数十人に増えるという状況になり、様相が徐々に見えてきました。そしてこれはまずい、やっかいなウイルスが出たなと思ったのが、1月15日くらいでした。

瀬名: 国内で初の患者が確認されたのが1月15日でしたよね。

押谷:  そうです。国内だけではなく、この時点ですでにタイでも感染者が見つかっていました。そのほか、武漢に相当数の感染者がいることもわかってきました。4人の感染者が中国以外の国で確認されたというのは、もうぜったいにアウトということです。この時点でパンデミックを想定しなければいけなかったのに、それをできなかったWHOは致命的なミスを犯したと思います。

瀬名: WHOが緊急事態を宣言したのは1月23日でしたっけ。

押谷: いえ、正確には30日です。23日は判断を見送ったのです。緊急事態を宣言するにはエマージェンシー・コミッティを招集する必要があり、22日に召集されました。しかしそこでは結論が出せませんでした。WHOの記録文書を見ると、翌日の23日に中国による報告が行われ、それを受けて、緊急事態宣言の発令を見送ったのです。この1月23日が何の日だったかというと、中国が武漢を閉鎖した日です。つまり、武漢を閉鎖することで感染を封じ込められると、中国が説明していたのではないかと想像できます。それを受けて見送ったのは致命的な判断ミスでした。本来なら、1月15日前後の時点でエマージェンシー・コミッティを招集して緊急事態宣言を出すべきでした。

瀬名: 致命的なという意味は。

押谷: 武漢の人口は1100万人ほどです。そこから海外に旅行した人が、どれくらいいたか。春節の前だったので、せいぜい数百人といったところでしょう。その時点での武漢の感染者数は百数十人と言われていました。もし罹患率がその程度だと仮定すると、1000万人中の数百人が海外に出て、そのなかにたまたま陽性者がいて、日本と韓国で1名ずつ、タイで2名の感染者が見つかる確率は、とんでもなく低いはずです。つまり武漢の感染者数はそんなものではなかったはずなのです。
 実際、2022年1月31日に香港大学の研究者が研究論文(注6)を発表し、海外で見つかった感染者数から逆算すると、2020年1月25日の時点で武漢には6万7000人の感染者がいたと推定しないと説明できないと結論しました。WHOは、海外で感染者が見つかった時点できちんとした判断を下すべきだったのです。それができなかったせいで、緊急事態宣言が遅れてしまいました。

瀬名: WHOはなぜ判断ミスを犯したのでしょう。政治的な理由を勘繰りたくなりますが。

押谷: それはわかりません。いずれにしろぼくとしては、1月15日の時点で、このウイルスは完全にアウトだ、SARSウイルスとは完全に別物だと確信しました。発生源だといわれている海鮮市場にしても、あれはクラスターの1つにすぎず、発生源は別にあると思っています。それがどこかはわかりません。海鮮市場が疑われたのは、その周辺で肺炎患者が見つかったことで、その原因は海鮮市場で売られている野生動物から感染したSARSのようなことが起きたのではないかという判断がはたらいたというのが、海鮮市場説の真相ではないかと思っています。なので、2019年12月の時点で、武漢のほかの地区にも相当数の患者がすでにいたのではないかと推定されます。このウイルスのやっかいなところは、無症候感染者、軽症者の数がすごく多いことです。そのせいで、状況認識が遅れたのでしょう。

瀬名: 当初、中国は事実を隠しているのではないかという陰謀論がありました。重篤な肺炎患者の発生をSNSで最初に報告した眼科医師は警察から処分され、後にCOVID-19で亡くなってから英雄扱いされました。その一方で、ウイルスのゲノム配列のいち早い公開はしました。やることはやって来たと、言えなくもありません。そのあたりはどうでしょうか。

押谷: 以前、どこかにも書きましたが、中国当局も、最初は何が起こっているのかわかっていなかったと思います。ぼく自身があそこにいたとしても、同じ間違いをしていたと思います。一部の患者ではSARSとよく似た症状が出ますし、ウイルス自体もSARSウイルスととてもよく似ています。なので、SARSと同じことが起こっていると判断してもおかしくなかったと思います。むしろそう思うほうが自然です。
 海鮮市場で最初に見つかったときは、接触者調査を実施することで抑えられたように見えたため、武漢の当局は、これで抑えられると判断したのでしょう。SARSでは、感染者のほとんどは重症化するので、ほとんどの感染者は検出できました。日本でも同じでしたが、目に見える患者からの感染拡大は抑えられるのです。ところが実態はぜんぜんちがっていて、見えないところで感染が広がるのが、このCOVID-19ウイルスの質の悪いところなのです。そこで見誤ってしまったのでしょう。それは、初期の段階では無理のないことだったと思います。

COVID-19襲来

瀬名:  先ほど、1月15日にパンデミックになることを確信されたとおっしゃいましたね。その後、武漢が閉鎖され、在留日本人をチャーター便で帰国されるということがあり、2月3日に《ダイヤモンド・プリンセス号》が横浜に入港しました。そこから《ダイヤモンド・プリンセス号》をめぐる報道が過熱し、多くの人がCOVID-19の怖さを知ることになりました。その頃、押谷先生は何を考え、どのような行動をなさっていたのですか。

押谷: じつは、日本にはほとんどいませんでした。以前から決まっていた出張で、1月の初めにザンビアに行き、1月15日はザンビアから帰国した頃。その後フィリピンに行き、2月10日からはシンガポールに行くことになっていました。その頃のシンガポールはうまく抑え込んでいたので、何をしているのかをあちらの専門家に聞きました。その後、またフィリピンに行き、保健省の担当者と、その先の対策について話し合っていました。2月21日くらいにNHKの首都圏の番組に出るために仙台から東京に出て、それ以来2年間、ほぼずっと東京にいます。
 《ダイヤモンド・プリンセス号》に関しては、データが出てこないということで海外からも批判されていました。そのため、当時は北海道大学にいた西浦博さんが厚労大臣の依頼でデータの扱いを始めていた。その流れで、2月25日にクラスター対策班(新型コロナウイルス クラスター対策班)が立ち上がりました。それまでは厚労省内での対応がすべてで、外部の専門家が国のデータを解析するというようなことはありませんでした。厚労省はそういうところなのです。2009年の新型インフルエンザのときもそうでした。
 ぼくも西浦さんから声をかけられてクラスター対策班に加わり、25日からずっと厚労省に詰めていました。しかしいろいろ報道の問題もありました。BSではなくNHK総合で放送された「NHKスペシャル(Nスペ)」の情報により多くの人がクラスター対策班の役割を誤解したということもありました。

瀬名: 大手全国メディア、特にNHKの影響力は大きいですからね……。

押谷: 4月11日に放映された第3回目の最後のNスぺ(注7)は特に問題でした。あの番組のために、あたかも西浦さんとぼくがクラスター対策班を仕切ってすべてを決めているかのような印象が植え付けられてしまった。PCR検査の実施を抑えている張本人だとも。しかしそれはまったくの誤りです。クラスター対策班の班長は厚労省の役人で、われわれには何の権限もありませんでした。最初のうちはデータすらもらえていなかった。それなのにNスぺのために、専門家に対する圧力が増す結果になったのです。

瀬名: 西浦さんのウェブでの発信も、そういう印象を与えたかもしれませんね。でも、台詞は事前に決められていたのではないですか。番組の作り方からして。

押谷: いや、準備時間がなかったせいか、流すVTRを見せられたのは直前でした。

瀬名: そういえばぼくも覚えがあります。SF関係の話題でクローズアップ現代に出たとき、直前に見せられたVTRの内容がひどかったので、直さないなら話さないと言ったのですが、結局、そのまま放映されて、ぼくに非難が集中しました。

押谷: 春分の日の連休の頃の話ですが、Nスぺの番組関係者は、コロナの問題をどうとらえたらいいか、よくわかっていなかったと思います。ぼくがこう話すだろうということをあらかじめ勝手に想定して、それとは反対の内容のVTRを準備しておいて流し、コメントさせようとするのです。たとえば、COVID-19は臨床的にはたいした病気ではないと語る医師の発言をそこだけ切り取って見せるのです。彼らは、この問題をどの程度深刻に扱うべきか、その時点では判断できていなかったのでしょう。後ですぐに収まったら、押谷とかいうとんでもない専門家が一人で大騒ぎしていたにすぎないということにすればいいという番組の作り方だったのです。番組の最後は専門家のコメントで締めくくり、自分たちの意見は表明しないという構成も問題でした。

瀬名: それでそれ以降、メディアに出なくなったんですね。
 2月25日にクラスター対策班が立ち上がり、2月28日に北海道知事が独自の緊急事態宣言を決定しました。

押谷: 2月27日、ぼくはクラスター対策班から少し早めに帰宅しました。滞在先の新宿のホテルに帰る途中、中華料理店で夕食を食べていたとき、西浦さんと国立感染症研究所感染症疫学センター長の鈴木基さんから携帯に電話がありました。ぼくが帰宅した後に出た当日のレポートで、北海道がいよいよ危なそうだというのです。いくつかの地域でクラスターが発生しているほか、全域にわたって、離れたいろいろな場所で個別の感染例が相次いで見つかってきたのです。
 これをどう説明すべきか。武漢から来た観光客が、われわれも知らないような田舎の町に出かけたとは考えられません。その時点での札幌の感染者は10数名でした。しかし、片田舎も含めて北海道全域から60数人の感染者が見つかっているということは、どこかに見えない発生源があることを意味していました。しかも、札幌から海外への輸出例まで出ていました。つまり、2019年12月時点の武漢と同じように、札幌にかなり大きな見えない発生源があるという結論になります。
 これはまずいということで、翌日、西浦さんといっしょに北海道知事に面会し、対策を打たないとさらに深刻な状況になると伝えました。それを受けて知事が、特措法に基づかない独自の緊急事態宣言を決めたのです。その頃はまだぼくも記者会見に出ていたのですが、症状のない若い感染者が札幌にたくさんいて、そこから感染が広がり、地方の高齢者が発症することで感染が可視化されているとの説明に対して、エビデンス(証拠)もないのに何を言うかと叩かれる結果になりました。そのときの緊急事態宣言は週末の外出自粛だけでしたが、《ダイヤモンド・プリンセス号》の記憶もまだ新しかったので、行動抑制も守られ、北海道での「第一波流行」は収まりました。そのときの北海道の流行は、雪祭りに来た中国人旅行者のなかのたった一人の感染者から広がったのだろうと考えられています。

瀬名: あのとき、北海道の緊急事態はなんとか収束しました。

押谷: ええ、それも含めて、中国から来日した感染者を起点とした武漢株の国内での流行は、3月の終わりまでにほぼ収束しました。国内における2月12日までの感染事例は、すべて中国からの渡航者を起点としたものであることが確認されていました。それに対してアメリカやヨーロッパの国々は、その時点で、非常に多くの感染者を見逃していました。ニューヨークで感染者が初めて見つかったのは3月上旬のことでした。実際には、1月下旬にはすでに感染が広がっていたのに、見逃していたと思われます。イギリス、イタリアなども多くの感染者を見逃していて、そのために感染が一気に広がった。そこからアメリカに飛び火し、大変なことになった。ただし西海岸はその前からきちんと制御していました。中国系の人が多いので、いずれ入ってくるだろうと、早い時期から備えていたのだと思われます。
 ところが2月13日に初めて、国内で感染源のわからない感染者が全国で突然出たのです。そういうことはいずれ必ず起きると、ぼくはそれ以前からメディアで話していました。しかし世間は《ダイヤモンド・プリンセス号》のことで頭がいっぱいで、たいして気にとめていなかったようですが。

瀬名: メディアはとかく短絡的な方向に走ってしまいがちです……。

押谷: 3月になると、イタリア、スペイン、アメリカ、東南アジア、エジプトなどいろいろな国から感染者が入ってきて、4月7日の特措法に基づく緊急事態宣言につながる流行が広がりました。2月14日に発足していた新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の脇田隆字座長の名前で、3月17日に、厚労省に検疫体制の強化を訴える要望書を出したのですが、政府は動きませんでした。そのために、ヨーロッパ株の感染が一気に広がる結果になりました。

瀬名: われわれ一般人の感覚だと、1月から6月くらいの流行が第一波という印象があります。しかし押谷先生たちの考え方としては、武漢株の流行が第一波で、それは3月の終わりまでに封じ込められた。4月の緊急事態宣言につながった流行はヨーロッパ株だったということですね。

押谷: そういうことです。

瀬名: そうか、確かに最初の頃はそのような定義で言われていました。それでその後、4月7日に7都府県に緊急事態宣言が発令され、6月2日には東京アラートも出て都庁とレインボーブリッジが赤く染まり、まるで庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』か『新世紀エヴァンゲリオン』か、といった世界の光景になっていきました。その中で、7月3日に専門家会議が廃止され、それに代わって設けられた新型コロナウイルス感染症対策分科会が8月3日に新たに開催されました。
 まだいろいろうかがいたいことがあるので、続きは次の回で。


*注
(1) アメリカの陸軍で豚インフルエンザが発生し、スペインインフルエンザの再来が懸念されたことから、フォード大統領の決断で大規模なワクチンの集団接種が開始されたのだが、接種直後にギラン・バレー症候群の発症が確認されたことでワクチン接種は中止された。結果的には、致死性の低いウイルスだったため、豚インフルエンザの流行は起こらなかった。詳しくは、R・E・ニュースタット/H・V・ファインバーグ『豚インフルエンザ事件と政策決断 1976起きなかった大流行』(西村秀一訳、時事通信出版局、2009)を参照。
(2) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD2323M0T20C21A5000000/?unlock=1
(3) https://www.arcgis.com/apps/dashboards/c3a8284f82c84542bdccd6e938ef9e8c
(4) 河合香織『分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議』(岩波書店、2021)
(5) 初回放送は2020年3月19日。
(6) DOI:https://doi.org/10.1016/S0140-6736(20)30260-9
(7) 2020年4月11日に放送されたNHKスペシャル「新型コロナウイルス感染拡大阻止最前線からの報告」


  (2022年3月8日取材、3月18日記事作成)

(編集責任:東北大学広報室特任教授 渡辺政隆)

押谷 仁(おしたに ひとし)

1959年生まれ。東北大学大学院 医学系研究科 微生物学分野・教授。フィリピン、モンゴル、インドネシア、カンボジア、ザンビア等のアジア・アフリカを研究フィールドとして感染症研究を行うとともに、国の新型インフルエンザ等対策有識者会議新型コロナウイルス感染症対策分科会の構成員等も務めている。『ウイルスVS人類 』(共著)、『パンデミックとたたかう』 (共著=瀬名秀明)、『 新型インフルエンザはなぜ恐ろしいのか』などの一般向け著書がある。

瀬名 秀明(せな ひであき)

1968年生まれ。作家。東北大学大学院薬学研究科博士課程在学中の1995年、『パラサイト・イヴ』で第2回日本ホラー小説大賞を受賞しデビュー。1998年、『BRAIN VALLEY』で第19回日本SF大賞受賞。東北大学大学院工学系研究科特任教授(2006~2009)。小説のほか、『パンデミックとたたかう』(共著=押谷仁)、『インフルエンザ21世紀』などの科学ノンフィクションもある。小説『この青い空で君をつつもう』『魔法を召し上がれ』『小説 ブラック・ジャック』などでは、新しいジャンルにも取り組んでいる。
(肖像写真 佐々木隆二氏撮影)

渡辺 政隆(わたなべ まさたか)

1955年生まれ。サイエンスライター。日本サイエンスコミュニケーション協会会長。文部科学省科学技術・学術政策研究所(2002~2008)、科学技術振興機構(2008~2011)、筑波大学広報室教授(2012~2019)を経て、2019年より東北大学広報室特任教授、2021年より同志社大学特別客員教授。進化生物学、科学史、サイエンスコミュニケーションを中心に、『一粒の柿の種』『ダーウィンの遺産』『ダーウィンの夢』『科学の歳事記』などの著作のほか、『種の起源』(ダーウィン著)、『ワンダフル・ライフ』『進化理論の構造』(グールド著)など訳書多数。