東北大学 東北大学新型コロナウィルス対応特別研究プロジェクト,The Front Line of COVID-19

PEOPLE

インタビュー

災害医療としての地域パンデミック対応


 新型コロナウイルス感染症対策では、地域ごとの取り組みが重要となっています。宮城県新型コロナウイルス感染症医療調整本部副本部長を務めている東北大学病院総合地域医療教育支援部の石井正教授と瀬名秀明さんに語り合っていただきました。

(2021年2月17日収録)


瀬名:はじめまして。石井先生のことは、2011年の東日本大震災時、津波に襲われた石巻で唯一機能していた石巻赤十字病院の災害医療コーディネーターとして、被災者診療の陣頭指揮を執った、いわばヒーローのような存在としてお名前を存じ上げていました。そのときのことを記録したご著書『東日本大震災 石巻災害医療の全記録 「最大被災地」を医療崩壊から救った医師の7ヵ月』(講談社ブルーバックス、2012)も、発売直後に購入し、拝読していました。いま手元にありますが、巻末に付された長岡赤十字病院救急救命センター長の内藤万砂文さんという方の解説記事が印象的です。内藤さんは次のように石井先生を評しておられます。
「すべての者に賛同してもらえる調整などできるはずもなく、誰かが断を下さなければ、物事は前に進まない。強い信念で明確な方向性を示すリーダーシップがなければ、支援救護班の力を結集することができない。心優しい調整型の人間では、この役はとても務まらない」
「彼はぶれない心と強いリーダーシップで、医療の枠を超え、何事に対しても抜群の実行力で闘い抜けた。震災発生後、政治や行政など、この国のあらゆるところで失われてしまったものが、ここにはあった。/繰り返すが、誰もが石井正になれるわけではない。だが、本書はこれからの災害医療にとって確固たる指標となるはずだ」
まさにヒーローへの称賛です。この解説も含めて当時とても印象に残った一冊です。

石井正教授

石井:それはお恥ずかしい。ヒーローだなんてとんでもありません。
瀬名:まず、そのときのことをお聞かせください。もともとは東北大学医学部第二外科(現在の総合外科)のご出身だったのに、どういう経緯で災害医療を担当されることになったのですか。
石井:石巻赤十字病院に移ったのは2002年のことで、それは単なる人事異動でのことでした。赤十字の本来の業務は、内規によれば災害救護なんです。なので、災害救護活動に熱心な組織です。着任時は、上司の古田昭彦先生が災害医療担当の医療社会事業部長で海外支援などにも行っていました。その古田先生が乳腺外科を立ち上げることになって多忙になったことで、外科の診療もしながら、その部長職も追加で任されることになりました。そこで、院内のマニュアルを変えたり、地域の医療実務担当者ネットワーク協議会を立ち上げたりしていたこともあって、石巻市の医師会の推薦で、大震災の1カ月前に県から災害医療コーディネーターを委嘱されることになったのです。
瀬名:もともと災害救急医療を学んでいたわけではなかったんですね。
石井:ぜんぜんなかったです。ただ、救護班には入っていて、2008年の岩手・宮城内陸地震のときは先発隊の一員として出動してはいました。特に災害医療をやりたいと手を上げたわけではなかった。

瀬名秀明さん

瀬名:県のコーディネーターになった直後に震災が起こったことで、指揮をとらざるを得なくなったということですか。
石井:そうなんです。災害が起こったら、石巻赤十字病院から石巻市役所の対策本部にリエゾン派遣するというのが院内のマニュアルでした。ところが、津波で保健所が流され、主導的役割を果たすべき市役所も機能不全に陥ってしまった。その中にあって、赤十字病院だけが電気、ガス、水道が無事で、被害も少なかったため、そこに支援救護班が自発的に続々と集まってきました。なので、病院で取りまとめるしかなかった。その担当は誰だということになり、災害医療コーディネーターのオレかということになったのです。石巻に参集した救護チームを束ねる「石巻圏合同救護チーム」を立ち上げ、同医療圏の災害医療救護活動を統括しました。
瀬名:ご著書の『東日本大震災 石巻災害医療の全記録』にも石巻市の被災地図が掲載されていますが、石巻市立病院の方は海に近く、津波の被害を受けてしまった。そうした中、高台に位置していた石巻赤十字病院だけが何とか機能できたわけですね。石巻といえば、漫画家・石ノ森章太郎さんの石ノ森萬画館が有名だろうと思います。UFOのようなかたちの銀色のドームで知られていますが、やはり海に近く、当時は1階が厳しい浸水被害を受けた。けれども幸いにして2階に保管されていた石ノ森さんの原画は難を逃れました。1ヵ月後の2011年4月、石ノ森萬画館はあえて鯉のぼりを掲げて、人々を勇気づけました。当時、ぼくもその光景を石巻で見ています。石ノ森萬画館はその後時間をかけて施設再開し、鯉のぼりが復興のシンボルとなったことは、多くの方がご存じだと思います。


パンデミックへの初動対応

瀬名:当時の先生のご活躍は、ご著書に克明に記録されています。そして今回、新型コロナウイルス感染症の地域パンデミック対策でも、医療調整本部副本部長として指揮を執られることになった。その経緯を教えてください。
石井:厚生労働省から、感染が疑われる患者の搬送コーディネーターを各県ごとに置くようにという通達があった。その任には統括DMAT注)が望ましいという通達が2020年3月19日にあり、関係者が県庁に集まりました。そのときはまだ患者数は少なかったので、搬送コーディネーターは、ぼくと仙台市立病院救命救急センター長の山内聡先生と、宮城県医師会副会長の橋本省先生、東北医科薬科大学病院救急センター長の遠藤智之先生が指名された。感染拡大がひどくなかったので、その時点では保健所の担当者と病院との直接のやり取りでおおむね間に合っていました。ところが、2020年12月くらいから感染が拡大し、保健師と病院とのやり取りだけでは入院の調整が難しいケースが激増したため、県の提案で調整本部を設置することになったのです。
瀬名:たしかに、参考の体制図(図1)には12月10日付けとありますね。

図1:宮城県新型コロナウイルス感染症医療調整本部の体制図


石井:そうです、体制を改めて立て直す必要が出たのです。この本部の画期的な点は、宮城県と仙台市が合同事務局を設置して情報が一本化されていることです。この合同事務局設置が本部設置の条件だったのです。
それともう1つ、東北大学病院長が本部長を務めていることです。国立大学病院の病院長が本部長というのは自分が知っている限り全国唯一だと思います。その下でぼくが副本部長に指名され、全体の指揮を任されています。ぼくを入れて9人の本部員のうち、遠藤智之先生と志賀卓弥先生は、重症患者さんのコンサルテーション専門本部員。残りの本部員は、全員が宮城県災害医療コーディネーター。この人選は、ぼくに任された。人選のポイントは、2019年の台風19号災害のときに、実際に病院避難や透析患者の移送の調整を現場で実施した強者(つわもの)たちであること。その人たちにお願いし、日替わりで県庁に詰めて、その日の新規陽性患者をホテル療養にするか、どこの病院に入院するかをきちんと調整する仕事をこなしています。ぼくの担当は原則毎週月曜日です。
瀬名:なるほど、災害現場を実際に経験した人を指名したわけですね。今もそれが続いている。東北大学病院としては、2020年4月16日からは軽症者等宿泊療養施設への医療支援、4月21日からはドライブスルー型PCR検査外来を開始したそうですね。緊急事態宣言は出ていたけれど、感染症医療調整本部が設置される前のスタートということになりますね。
石井:当初は患者数が少なかったので、行政の担当者がメール等で感染症の専門家に意見を聞きつつ、新規患者のホテルが入院かの割り振りを調整していました。そのための有識者メーリングリストがあり、その当時はそれで足りていました。それとは別に、ホテルの医療支援とドライブスルー検査については大学病院が実施していました。
瀬名:それは石井先生が指揮されていたんですか。
石井:そうです。最初、県にはPCR検査のキャパはあるのに、検体採取が間に合っていないという問題があり、4月13日に、八重樫伸生医学系研究科長といっしょに、県保健福祉部長と協議するために非公式に県庁に出向きました。すると知事室に呼び込まれ、大学でドライブスルー検査をやってほしいという依頼があったのです。大学に戻って協議した結果、同日の夕方、ぼくが担当者の指名されてしまった。びっくりでした。
瀬名:それはやはり、石巻赤十字病院の伝説的ヒーローだから?
石井:いえいえ、これからお話するように、コロナ対策にヒーローは不要です。そもそもぼくは自分がヒーローだったとは思っていませんし。
そもそも、提示された場所が、大学病院から離れた屋外でした。そこで検体採取という医療行為をするにあたり、そこに分院を作るのかという話になったのですが、それは法律的に問題があるということになりました。代わりに東北大学病院事務部の発案で、その場所に東北大学診療所を設置する申請を東北厚生局にすることにしたのです。診療所を正式に設置し、東北大学総長名で診療所所長を拝命しました。餅は餅屋で、ぼくのような医師には思いもつかない方法です。
検査の業務フローは県庁の担当者と膝詰めで数日間協議して決めました。大学病院への予約リストの提出、受診者ID発行、紙カルテの作成、電子カルテの入力、問診、検体採取の手順などなど具体的業務フローを決めて、診療の形を整えました(図2)。

図2:東北大学病院が実施しているドライブスルー方式PCR検査の様子


キックオフは4月21日。事務局は、院内のDMAT隊員中心で構成し、医師はぼくの教室員のほか、耳鼻咽喉科の香取幸夫教授、小児科の呉繁夫教授、救急科の久志本成樹教授が手を挙げて下さりそれぞれの教室の先生方を派遣してくれることになりました。その後、加齢医学研究所や災害科学国際研究所、仙台市医師会の先生方にもご支援頂けることになりました。採取した検体の取り違えや紛失のないよう確実性を期すために、鈴木由美看護部長にお願いして看護師さんの派遣もしてもらえることにもなりました。問診については歯学部がご協力してくれることになり、初期研修医の有志も手伝ってくれています。それとは別に、ホテルに対しては本院医師の24時間オンコールや週3日の往診に加え、看護部による夜間の宿泊支援も行い、ぼくが取りまとめを担当しています。この1月からは、大学病院の放射線部と検査部のご協力を得て、ホテル入所者を対象にしたホテル内でのX線検査(図3)と簡易的な採血検査も実施しています。
そういうわけで、大学病院が一丸となってチームで取り組んでいるのです。


図3(注2)

瀬名:実は、ぼくは宮城県がドライブスルー型PCR検査外来をやっていたことは、最近まで知りませんでした。村井嘉浩知事の発案だったというのも驚きです。知事が発案されたことには、何かきっかけがあったのでしょうか。
石井:詳しいことはわかりませんが、短時間で大人数の検体採取にはドライブスルーが向いていることは確かです。韓国など海外でもやっていましたし、たしか新潟県でもやっていました。当初は、電話で保健所に相談した人やコロナ陽性者の濃厚接触者が、保健所の指示により、県内の協力病院に設置された帰国者接触者外来で検査を受けていました。協力病院では間に合わなくなったということで、ドライブスルー方式の帰国者接触者外来として導入したのです。ただし、韓国やアメリカのような、希望者がやってきて検査してもらう方式とはちがいます。
瀬名: そうですね。第一波のころ、海外と同じように日本でもドライブスルー型PCR検査を普及させるべきだという声はたくさんありましたが、お話をうかがうと海外のそうした事例とは別のものですね。一般の人が誰でも気軽に検査できるということではなく、濃厚接触者の方々に予約を入れていただいて、順番に検査場に来ていただく。検体採取の場が屋外であったということですね。ドライブスルーでやったことのメリットは?
石井:病院で検体採取をするとなると、導線の確保や感染対策をしなくてはいけない。屋外の特設診療所なら、検査に特化している上に換気は十分で、流れ作業で、一人2分強で終わります。感染予防もしやすい。現時点で、スタッフから陽性者は出ていません。
瀬名:そうした中での、責任者としての石井さんご自身の手ごたえはどうでしたか。
石井:手ごたえというより、県から依頼されたことに対して、意気に感じてやれることを精一杯やっているという感じですね。まず初めに搬送コーディネーターに指名されたということもあったし、平常時にはない部署を新規で立ち上げてやるという点で災害対応に似ているから指名されたのでしょう。大学の取り組みとしてユニークなのは、繰り返しますが旧帝大の大学病院長が県の医療調整本部長をやっているところです。協力病院の多くが大学の関連病院であることから、大学病院長の号令一下で調整しやすいので、効果抜群です。東京では決して実現できないことです。
瀬名:ふーむ、地方ならではということなんですね。しかもこの東北だから、この宮城県、仙台市だからできた。東北大学は東北地方で唯一の旧帝大ですし、何かをまとめるとすればやはり東北大がまず手を挙げるのが自然の流れでしょう。卒業生も関連病院で活躍されていることと思います。そういう意味で、ちょうどほどよい大きさの地域に、今回は東北大の影響力が、うまく嵌まったということでしょうか。「地域パンデミック対策」というものに対するユニバーサルな解ではないけれど、世界にはそれぞれいろいろな地域がある。それぞれの地域ごとに模索してゆくべき面もたくさんある。そうした調整を、地域色を活かしながら進めていった、というのが、あえていえばユニバーサルな解につながる部分かもしれないと、いまうかがって思いました。きっと人間関係の調整も、地域ごと、場所ごとにやり方がちがうんでしょうね。


地域貢献という東北大学の学風

石井:保健師よりも、横のつながりのある医師がコーディネートしたほうが話が早いということがあります。県の部長が発案し、冨永大学病院長に相談して快諾されたという経緯なのではないでしょうか。東北大学を擁する宮城県仙台市という地方都市ならではの融通性が活かされたと思います。
瀬名:副本部長の石井先生を入れて7名の本部員の先生方が交代で県庁に出向き、トリアージをしているというやり方ですね。ただ、トリアージとは言っても、災害時のトリアージとはちがいますよね。
石井:ちがいます。トリアージと言うと、軽症者は後回しにするイメージが強いので、今はマッチングという表現を使っています。自宅近くの病院がいいという要望もあるし、糖尿病の基礎疾患のある患者さんは対応できないという事情を抱える病院もあったりするので、マッチングの方がぴったりです。各病院の状況を報告し合って全体方針を決めるのは協力病院長会議で、冨永先生がリーダーシップをとっています。
瀬名:たしかに「マッチング」の方がうまい表現ですね。「トリアージ」というと、どうしても「命の選択」といったイメージが強い。震災や津波のときは、被災者の方が次々と病院に運ばれてきて、タグをつけられる。トリアージとは人手も圧倒的に足りない救急災害医療の現場では、一人でも多くの傷病者を救うために、どうしても治療や搬送の順番をつけないといけない。だからどうしても軽傷者や、回復の見込みがないと思われる重傷患者は後回しにせざるを得ないので行われる救助システムです。トリアージタグは端から破り取れるようになっていて、緑色タグなら軽傷で保留、1つ破り取って黄色なら治療の順番を待機、さらに破り取って赤色なら最優先、そして黒色タグは死亡者、という方式ですね。
今回の「宮城県新型コロナウイルス感染症医療対策調整本部」の本部員の中に、東北大学病院高度救命救急センターの藤田基生先生のお名前があります。ぼくは何年か前、作家の仕事の関係で藤田先生にお願いして、仙台でDMATの訓練を見学させていただいたことがあるんです。医師、看護師、各所への連絡役である業務調整員(ロジスティクス)、そうした方々(薬剤師が入ることも多い)がチームを作って、トリアージを含む医療活動を行う。ドラマでもよく見る光景で、「トリアージ」というとそのイメージが真っ先に浮かんでしまいますが、今回、石井先生たちがなさっているのは、そういうことではないということですね。
石井:ええ、違います。
瀬名:東北大学が今回の新型コロナウイルス感染症のパンデミック対策を「感染災害」と位置づけて独自の方策を実施している、といった報道が出ていますが、こうして具体的にお話をうかがってゆくと、必ずしも2011年の東日本大震災の経験を、まったくではないにしても、直接的に役立てているという感じでもありませんね。宮城県や仙台市は、日本の大都市の中でも新型コロナウイルスの陽性者が少ない方なんですが、それが2011年の震災から得た教訓の成果だ、と積極的に評価するのもちょっとちがう気がします。1つは先に述べたように、ほどほどの大都市であるという土地柄ならではの方策を、先生方が1つひとつ模索されて実施されたこと。もう1つ、ぼくが思うに、宮城県や仙台は以前から地域パンデミック対策への意識が高く、有志の方々がふだんから勉強されていたこと。むろん県や市の対策が完璧とは言えなかったかもしれませんし、実際に県民や市民からは不満や不安の声もあります。ただ、そうした土壌があったことは幸いだったように思うのです。
石井:そうなんです。強調しておきたいのは、宮城県独自の取り組みという報道をされたりしているのですが、基本のところでそれはあたらないということです。搬送コーディネーターを統括DMATが担うことは国の要請があってのことです。それについては、クルーズ船のクラスター対策にDMATが派遣されたという経緯も関係しています。旭川のクラスター発生でもDMATが派遣されていました。ぼくが知っている山形でも福島でも、災害医療のコアメンバーが県庁に入って同じようなことをやっています。通常の自然災害では、県をまたいだ調整や支援があるのですが、COVID-19では日本全国が被災地なので、それがない。県ごとに、災害医療コーディネーターがコアメンバーになってやっているはずです。阪神淡路大震災や東日本大震災を教訓にして災害医療コーディネーター制度ができ、非常時に対応するための訓練を受けた人が増えているので、各県で同じような体制が組めるのです。その中で宮城県は、ほどほどの規模の大都市で、東北大学病院を中心にしたガバナンスが効きやすいという特徴を活かしているのです。
その点で言えば、大学病院の入れ込みの大きさでは、宮城県は特殊かもしれません。東北大学では、地域貢献が当然の学風になっているからです。大震災時も、当時の里見進大学病院長の号令で、病院医師全員がそれぞれの専門を超えて被災地から受け入れた患者の診療を行いました。医師だけでなく、大学病院の看護部、放射線部、検査部もみんなそうでした。今回、ホテルでのX線検査ができたのも、そういう学風のおかげです。事務も、それを実現するための方策に知恵を絞っている。大学病院の隅々まで、非常時に地域に貢献するという学風が息づいているのです。
瀬名:クルーズ船のとき、まずDMATが入ったことで、それに違和感を表明される医師の方もいましたよね。でもその後の報告などを見たり読んだりする限り、DMATの方々は本当によくやられたと思います。ただ、そうしたDMATの方々も、最初に要請を受けたときは、「自分たちは感染症の専門ではないがいいのか」という戸惑いもあったと聞きます。どんぴしゃの専門家集団を最初から準備できればそれに越したことはないですが、現実はそうはいかない。誰もが少しずつ現場に馴染んでゆき、その場で最善を尽くすということなのだろうと思います。
今回のパンデミックは、やはり地震や津波などの自然災害とちがうということがわかります。地震や津波では、最初の数日の対応が生死を分けるといわれますよね。戦場での負傷者の治療も、最初の数時間、もっと言えば最初の数分がゴールデンタイムだと聞きます。戦場ではほとんどの場合が裂傷や火傷なので、処置が早ければ早いほど助かる見込みが高いからですね。震災や津波だと先生のご著書にもあるように、数日後に発見・救助されるケースもあり、寒さや疲労で徐々に悪化してゆく被災者も多い。すべての災害救援活動において、どこに目配りするべきかの焦点は変わるということなのだろうと思います。
感染症パンデミック対策もまた独特だと思います。パンデミックは地震や津波とちがって、だらだらと続くのがいちばんの特徴で、対策のメリハリをつけるのが非常に難しい。しかも今回の新型コロナでは、従来想定していた高病原性鳥インフルエンザとも異なる感染状態に世界は直面しました。今回初めて経験したご苦労があれば教えてください。
石井:火事にたとえると、自然災害は大爆発、COVID-19は山火事みたいなもの。大災害で大変なのは、撤収のタイミングです。今回は撤収のタイミングがつかめない。ドライブスルーをいったんやめると再開が大変なので、縮小してでも当面は継続しておく必要があります。ただしそれ以外では、大震災のときと同じです。震災を経験した宮城県は、いろいろな組織が同じ方向を向いていてやりやすい。保健師はじめ行政の方たちもみんないい人ばかりだし、ぼくはついていると思っています。
瀬名:組織のマネージメントにはある種の総合知が求められると思います。石巻のときはスピード感と臨機応変さが求められたと思うのですが、今回は決断の仕方にちがいがありますか。
石井:日々の細かいことは、その場の決断をしていますが、地方の病院から大学という大きな組織に戻って学んだ重要なことは、みんなに納得してもらうということでした。聞こえが悪いかもしれませんが、根回しが大切。思い付きの独断専行をすると、道を誤ったときに助けてもらえなくなります。石巻のときも、周囲に相談できる人、ブレーンがいたので助かりました。その一方で、バラエティのMCみたいに、てきぱきとものを決めていくことで、求心力が高まったと思っています。そういう経験は、今回も活かせています。
瀬名:他県との情報交換はどのくらいあるのですか。
石井:今回は、他県の情報がぜんぜん入ってきていません。どこも、そんな余裕はないのではないでしょうか。ぼくも発信できていない状況です。それはまずいので、今後、災害医学会などでの発表を予定しています。
瀬名:今後の見通しはいかがですか。
石井:とにかく、ワクチンと有効な治療法を待つしかない。それまでは、新規患者さんの検査とマッチングを粛々とやるだけです。協力体制ができていて一致団結してやっているので、どういう状況になろうとも対応できると、楽観的に考えています。


対談を終えて

瀬名:まず今回、石井先生のお話をうかがって、ご著書の『東日本大震災 石巻災害医療の全記録』の筆致とかなり異なることに驚き、同時に「なるほど、そうか」と強く納得できる面もありました。というのは、ご著書の中での石井先生は、最初に紹介した解説記事にもあるように、まさにヒーローのごとく八面六臂の活躍をされているからです。
地震や津波発生後の数ヵ月、とにかく地域の中で医療機関として唯一存続できた石巻赤十字病院は、あらゆることを迅速に解決し、実行してゆく必要があった。よってその陣頭指揮に立った石井先生は、次から次へと降りかかる無数の要望に対して、その場でびしばしと決断して指示を出し、捌いていかなければならなかった。中途半端な要望を持ってくる人や、批判ばかりして方策を打ち出さない人に対しては、まず具体的な案をつくってから出直してこいと跳ね返した。「「そもそも」論を唱える「評論家」は不要だった」とご著書にはっきり書かれているほどです。そして7ヵ月後、チームとしての活動を終了して、先生のご著書はフィナーレを迎えます。ぼくたち一般人はヒーローを求めがちですから、当時の先生にヒーロー像を重ね合わせたのは無理もないことだったと思いますし、当時ご著書の刊行に至ったのも、そうした読者や編集側の期待に応えようとした側面もあったのではないかと推察します。
ですが今日うかがった先生のお話は、必ずしもそうした当時のご著書に刻まれた即決即断型のヒーロー像ではない。むしろ今日のお話は地道な調整の積み重ねであり、たとえばドライブスルー型PCR検査の発案者も村井知事であって石井先生ではない。ことパンデミックに関してヒーローというものは存在しない、あえていうならヒーローは地道に現場で最善を尽くしているぼくたち一人ひとりであり、あるいはいま隣でマスクをつけてくれている見知らぬ人なのだと、ぼくは以前から思って来ましたが、いまその思いを新たにしています。
いまは個々人が何でも簡単に情報発信できる時代で、ウェブ上では膨大な量の声が飛び交っています。多くの「専門家」を自称する人たちもまた、1秒先を争うかのようにおのれの見解を次々と発し、リツイート数や「いいね!」の数を誇示しています。一方、ぼくたち一般人はそうしたネット上の声にいっせいに反応し、翌日になるともう別の意見に熱中しているといった具合です。 そうした中でこの対談連載は行われています。いまのような時期、大学の広報として、「うちの大学がこんなにすごい成果を出しています」とどんどん情報発信し、人々の目に留まって注目してもらうことは大切でしょう。石井先生もいまさまざまなメディアに登場されて、東北大の取り組みを語っておられることと思います。
ですが個人的なことをお話しさせていただくと、この対談シリーズには、そうした大学広報活動に留まるのではなくて、もう少し先へ行けないだろうか、という思いがあるのです。
このシリーズにはさまざまな分野の先生にご登場いただいていますが、できればそうした先生方も他の回の対談を読んで、少しでも得るところがあるならばこんなに嬉しいことはない、という願いです。「学際」などといわれて久しいですが、本当にいまの大学は真の学際ができているのだろうか。その疑問からこの仕事を引き受けました。総合知の実現には確かにリーダーシップも必要であるし、「この人の指示なら受け容れよう、この人が言うのだからついていこう」と周囲が思える人柄や実力、経験も、現場では求められる。でもそれは決して「ヒーロー」ではないのです。
2020年夏、ぼくはNHK BS1の『英雄たちの選択』というテレビ番組にゲスト出演しました。これは歴史学者の磯田道史さんが司会役となって、毎回歴史上の英雄を取り上げ、彼らが重大局面でどのような決断を下したか、そこからどんな教訓が読み取れるかを伝える番組です。磯田さんは災害歴史学がご専門ですからパンデミックの歴史にも詳しく、ぼくの出た回では2回にわたって幕末の天然痘や明治期のコレラから1918年のスペイン風邪(スペイン・インフルエンザ)までが取り上げられ、後藤新平や北里柴三郎らの活躍、ワクチン開発における研究者側と行政側の確執の経緯などが語られました。
確かに後藤新平や北里柴三郎は歴史の教科書に載る偉人であり、英雄だったことでしょう。ですが北里柴三郎は最後までスペイン風邪の原因を濾過性病原体(ウイルスのこと。当時はまだウイルス自体が発見されておらず、スペイン風邪の原因はわかっていなかった)だとは信じられず、自分の見つけたインフルエンザ菌(別名プファイファー菌)という細菌だと思い込んでいました。それが当時のワクチン政策にも混乱を与える一因となったかもしれません。英雄でさえ間違えることがある、英雄でさえバイアスに嵌まることがあるのだ──というのがぼくたちの得るべき本当の教訓なのだと思います。
東北大学の中でも、石井先生を英雄視し、それゆえに尊敬する方はいらっしゃるかもしれません。でも今日の話は、決してヒーローの物語ではないと思うのです。
先生は最後に、「自分には周囲に相談できる人がいたので助かった」とおっしゃいました。どんなにヒーローに見える人にも、そばで的確にアドバイスできる人、メンターとなる人の存在が、必要なのだと思います。押谷仁先生も、2020年前半の苦しいとき東北大学の宗教学の先生からメンター的な立場でアドバイスをいただけたことが心の支えになった旨を話されています。
実は今回、石井先生とお話しするに先立って、国立病院機構仙台医療センターの西村秀一先生とリモート対談する機会がありました。西村さんは臨床研究部ウイルスセンター長で、今回の新型コロナでもクルーズ船の調査に協力して、いち早く空気感染(エアボーン)の可能性を指摘された一人です。東北大ではなく山形大学のご出身ですが、かつてはCDC(米国疾病予防管理センター)や国立感染症研究所に所属されていました。それで仙台に転勤されてから、宮城・仙台の有志を集めて、現在の「みちのくウイルス塾」を起ち上げた方なんですね。ぼくの父(ウイルス学者・鈴木康夫氏)がもともと西村さんと知り合いで、その伝手でぼくも何度か初期の勉強会に参加していました。西村さんは本好きでもあって、こつこつと翻訳されていたアルフレッド・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック』(みすず書房、新装版2009)を勉強会の輪読に使っていました。1918年のスペイン風邪の記録を丹念に精査して甦らせた歴史的名著です。
あるとき「この本はものすごく大切だから商業出版したいのだが、瀬名さん、出版社を紹介してくれないか」と頼まれたんです。最初、懇意の出版社に見せましたが「専門的すぎる」と断られて、2社目にまったく面識のなかったみすず書房にぼくが電話したら、社長が電話を受けてくださった。それが出版につながり、それを読んだ歴史人口学者の故・速水融さんが、今度は日本におけるスペイン風邪の資料を掘り起こして、『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店、2006)を出された。その速水さんのお弟子さんで、当時調査の手伝いをなさったのが、現在活躍されている歴史学者の磯田道史さんです。
いま『史上最悪のインフルエンザ』と『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』はパンデミックを考える際の基本図書と言っていいでしょう。仙台でのごく小さな勉強会が出版へとつながり、それが文系・理系を超えた成果へと至り、多くの日本の読者に感銘と示唆を与えている。西村さんはインフルエンザなど呼吸器系感染症の第一人者で、しかも早くから「地域におけるパンデミック対策」の重要性を、「インフルエンザ」(メディカルレビュー社)という専門家向けの医学雑誌で唱えてきた方でした。東京のような首都圏ではなく、地方都市におけるパンデミック対策なんて、20年前の日本ではほとんどまともに論じられていなかったと思います。
その西村さんから、「いまも週1回、自分は東北大の押谷仁先生、小坂健先生、石井正先生らと一緒に、リモート会議で新型コロナのミーティングを続けている。『こんなことを県に提案したらいいんじゃないか』といった話をしている」と対談でうかがって、地域におけるパンデミック対策の躍動を改めて知った気がしたんです。そうした小さなネットワークがたぶん地域にはいくつもあって、そこでの議論の一端がおそらくは実を結んでゆくという、ぼくたち一般人にはなかなか目に見えないけれど、とても重要な動きがあるんだと感じました。それで石井先生にお話をうかがってみたいと思ったのです。きっと宮城・仙台には昔から、そういう雰囲気を鼓舞するアドバンテージがあるんですね。
かつて感染症対策の現場にはいつもヒーローがいました。CDCのナンシー・コックス博士、SARSのときのカルロ・ウルバニ医師。彼らの英雄的活躍はテレビドキュメンタリーやノンフィクション書籍で描かれました。日本でいうならポリオの尾身茂先生、そしてあるいは押谷先生。WHO(世界保健機構)の進藤奈邦子さんが「日本にはヒーローと呼ばれる人たちがいる」とおっしゃっていた通りです。
しかし今回のパンデミックでは、CDCさえ失敗しました。2020年5月にはWHOのテドロス事務局長への辞任要求署名が100万人を超える事態となりました。いままで尊敬に値すると当然のごとくに思っていた機関が次々と失墜してゆくのを目の当たりにしました。かつてヒーローと呼ばれていたはずの感染症専門家たちも各国で激しい批判に晒され、表舞台から去って行った人たちもいます。今回のパンデミックはぼくたちがこれまで漠然と持っていたヒーロー像の幻想を、ことごとく打ち砕いてしまいました。
一方で、SNSでは「われこそヒーローだ」といわんばかりの人たちが、日々誰かへの糾弾にいそしみ、そして国民の一部はそれに乗っかって声を上げています。なるほど、民主的な社会のあり方ではあるのかもしれません。政治や行政に根深く広がる人間同士の利権関係が、よりよい政策決断を鈍らせているのだということも、国民は肌で感じるようになってきました。しかしその一方で科学や医療コミュニティの中にもまた、人間関係による「忖度」(先回り服従)は残っていて、それが科学者や大学人の判断すら鈍らせているのが現状だと思います。
いまは自己アピール、セルフプロデュース全盛の時代です。大学もその波に乗らないわけにはいきません。積極的な広報活動が求められます。ですがその波に乗ることが第一目標となってしまって、おのれの大学の成果を客観視できなくなってしまうのでは困る。本当によい成果を、その価値がしっかり伝わるように、人々との信頼関係のもとで広報展開することの大切さが、いまほど求められているときはありません。
そういう現在において、ヒーローやリーダーシップとは何であるのか。真の大学広報とはどのようなものであるか。ということも、今回の対談が包含するテーマだったと思います。
2020年2月、ある大学が「海藻のアオサにコロナウイルス抑制効果」と発表し、これが大問題となりました。実験で使われたコロナウイルスは、今回のパンデミックとなった新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)ではない。しかもマウスに対する効果を見ただけだったのに、「新型コロナウイルスでの効果にも期待」とプレスリリースのタイトルに載せてしまったからです。あまりにも誤解を招く表現だと批判され、大学側はリリースを削除しました。実はぼくの父がこの大学の教授を務めたことがあり、いまでも研究面で関係がありますが、この炎上当時、ぼくとの電話口で、「あの発表は私とはまったく関係がない」とものすごく憤っていたのが印象的でした。自分もインフルエンザウイルスの研究者ですから、杜撰な研究に自分が関わっていると思われるのが我慢ならなかったのでしょう。これは当該大学広報の失態ですが、こうした過ちはどこの大学でも起こりうるのだと思います。東北大学でさえやってしまいかねない。大学広報のあり方が問われる所以です。東北大はそのことを自覚できているだろうか。広報担当者はその自省ができているだろうか。つまりこの対談シリーズは、そうした大学広報の現状さえも超えてゆかなければならない。
ヒーローのあり方についても思い出す事柄があります。作家の篠田節子さんが、かつて『夏の災厄』(角川文庫、初刊1995)という長編小説を書かれて、当時の直木賞候補になりました。日本脳炎に似た奇病が東京郊外で発生するという物語ですが、篠田さんは単行本版のあとがきで「ヒーロー不在のパニック小説を書いてみたかった」と述べておられた。きわめて先見性のあるテーマ設定だったと思います。ところが選考のとき、ある委員がこのあとがきに着目したのか、「それでも小説にはヒーローが必要だ」といって、この本は落選したのです。後に篠田さんは別の作品で直木賞を受賞なさいました。ですがこのときの選考委員の評価は、文学の限界を端的に示したものだったとぼくは思います。この単行本版あとがきは、後の文庫版には収録されていません。
ぼくたち人間はヒーローを求めたがります。ですが今回のパンデミックによって、明らかにヒーローのあり方は変わったのだと思うのです。今回、石井先生のお話をうかがってそう感じました。石井先生はご著書から透けて見える人物像とは違って、むしろそのときあたかも運命のように与えられた仕事を、しかしきちんと受け入れ、自分の立場でできることに最善を尽くす方のようにお見受けしました。そして信頼できる仲間の存在を強調された。ヒーローは独りではない、ということだと思います。
今回、石井先生は、いわばチームの代表者として対談をお引き受けいただいたわけですが、対談の中で先生がお名前を出された数々の先生方を含め、「自分はヒーローではない」とおっしゃるであろう多くの方々が、いまも現場で活躍なさっているはずなのです。残念ながらぼくのリサーチ不足で、そうした方々の業績をきちんと見つけて辿り着くことはできていません。ですがひょっとすると、大学の先生方もまた、部署が違えば似たようなもので、隣の棟にどんな人がいるのか知らないのが現状ではないでしょうか。
そうした現実の中、石井先生は、県と市の壁を超えた合同事務局の運営に協力されている。地元旧帝大の病院長をトップに置く、国内唯一の調整本部の設立に尽力なさった。もちろん新型コロナウイルスに対する宮城県や仙台市の対策の成果のほどが検証されるのはこれから先です。先に紹介した西村秀一さんは、「宮城県や仙台市で陽性者数が少ないのは、たんなる偶然だ」とおっしゃっていました。過大評価でもいけないけれど、個々の現場で本当に努力し、成果を挙げている人たちも忘れてはいけない。東北大学はそうした当たり前のことをきちんと発信できる大学であってほしいとぼくは思うのです。
ぼくたちにはみんなそれぞれの現場があります。このような時代、1つひとつその場で丁寧に判断し行動することが何よりも大切になってきますが、やはり人間だからぼくたちは疲れます。マライア・キャリーの「ヒーロー」という歌をぼくは思い出します。自分の中にもヒーローがいるのだと鼓舞し、歌い上げる、セルフ・コンパッションの曲です。また、以前の野家啓一先生との対談でも言及したクリント・イーストウッド監督は、常に「真のヒーローとは何か」というテーマと向き合って映画を制作しています。ヒーローは独りではない。誰もがヒーローになれる。ときにヒーローは世間から祭り上げられてしまうものだが、最後はおのれの人間性こそが大切である──イーストウッド監督がずっと描いてきたこれらのテーマが、とみに思い出される対談となりました。


注1)DMAT:厚生労働省の定義では、「災害急性期に活動できる機動性を持ったトレーニングを受けた医療チーム」。災害派遣医療チーム Disaster Medical Assistance Team の頭文字をとって略して「DMAT(ディーマット)」と呼ばれている。
注2)軽症者等宿泊療養施設として使用しているホテルに対し、東北大学病院では医師によるオンコールや往診、看護師夜勤支援のほか、X線検査や採血も行っている


  (2021年2月17日取材、3月11日記事作成)

(編集責任:東北大学広報室特任教授 渡辺政隆)

石井 正(いしい ただし)

1963年東京生まれ。89年東北大学医学部卒業。
東北大学病院 総合地域医療教育支援部 教授。
2002年に石巻赤十字病院外科部長、07年は医療社会事業部長に就任。
東日本大震災では、宮城県災害医療コーディネーターとして、 石巻医療圏の医療救護活動を統括。 2012年より現職。
著書に『石巻災害医療の全記録』(講談社、2012)がある。

瀬名 秀明(せな ひであき)

1968年生まれ。作家。東北大学大学院薬学研究科博士課程在学中の1995年、『パラサイト・イヴ』で第2回日本ホラー小説大賞を受賞しデビュー。1998年、『BRAIN VALLEY』で第19回日本SF大賞受賞。東北大学大学院工学系研究科特任教授(2006~2009)。小説のほか、『パンデミックとたたかう』(共著=押谷仁)、『インフルエンザ21世紀』などの科学ノンフィクションもある。小説『この青い空で君をつつもう』『魔法を召し上がれ』『小説 ブラック・ジャック』などでは、新しいジャンルにも取り組んでいる。
(肖像写真 佐々木隆二氏撮影)

渡辺 政隆(わたなべ まさたか)

1955年生まれ。サイエンスライター。日本サイエンスコミュニケーション協会会長。文部科学省科学技術・学術政策研究所(2002~2008)、科学技術振興機構(2008~2011)、筑波大学広報室教授(2012~2019)を経て、2019年より東北大学広報室特任教授。進化生物学、科学史、サイエンスコミュニケーションを中心に、『一粒の柿の種』『ダーウィンの遺産』『ダーウィンの夢』などの著作のほか、『種の起源』(ダーウィン著)、『ワンダフル・ライフ』(グールド著)など訳書多数。